2022/04/12 北砂散歩 06 四砂北歩道橋/中村稲荷神社/冨賀岡八幡神社/境川東横断橋/志演尊空神社/砂町小歩道橋/日本経済新聞社南砂別館

どんどん路地を東へ移動。





◆四砂北歩道橋













中村稲荷神社

奥の方に赤い鳥居が見える。
完全に人の家の敷地なのでこれ以上は近づけないね。



google map のマークは上の写真のところあたり。
パソコンでは見られなくなっていた。











◆冨賀岡八幡神社











境川東・西横断橋

上は清洲橋通り












◆志演尊空神社

一度お参りに来たことがある。
2018/02/28 砂町散歩 06 境川周辺の移り変り/志演尊空神社/城東警察署/砂町銀座/高平稲荷/北砂公園 - ovanの社会科見学



寛永元年、深川郷唐島開発の際当地に訪れた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社号を称し、土地の氏神としてあがめた。 元禄年間、時の将軍徳川綱吉がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。 又正徳2年の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたとこと病は止まりこれによって毎年5月22日の祭礼を執行した。当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記載されている。
尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして寛文3年12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。
親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。
その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。
昭和20年3月9日の戦災により両者焼失。
昭和22年3月志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。


江戸東京の農業 野菜の促成栽培は発祥の地・砂村

 野菜の促成栽培は 寛文年間(1661〜73)の頃, 中田新田の農民, 松本久四郎が考案した と言われています。
 初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米麦など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, また, 庶民のぜいたくは, 身分制度をゆるがすことになるとして, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
 この促成栽培の方法は, ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し, 江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積, この熱を利用して 早く野菜の種をまくことで, 収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり, 昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した, 見事なリサイクルが 昭和30年代まで展開されてきた事実にも 驚きと先人の苦労がしのばれます。


力石



 志演神社の石は、紀年銘のある力石のなかではかなり古いの力石として有名です。 力石とは力試しの道具ですが、主に近世から近代にかけてのもので、若者組などにおける成人行事や娯楽に使用されたものです。江戸では特に米問屋や酒問屋において、力石を使って若者を採用したといいます。 一方では、怪力を見世物とする「力持ち」のなかでも使用され、この興行が江戸市中で大流行すると、文
政年間(一八一八〜三〇)には、素人力士たちが社寺への寄進を口実に、奉納力持ちを盛んに興行しています。
 本力石の材質は安山岩、形状は卵型です。表面は風化・剥離が激しいものの、正面中央に「□嶋正□」、正面左に「寛文四辰天二月朔日」と刻銘が読めます。寛文四年は西暦1664年にあたります。地元では「志乃武石」とも呼んでいます。
 江東区には、平成十一年四月時点で八十二個という多くの力石が登録され、深川佐賀町の問屋街に由来する郷土芸能「深川の力持」(東京都無形民俗文化財)も伝わっていますので、ここに全国的に見ても古い力石があるのも頷けます。



境川周辺の移り変り

 境川(現在の都道清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。
 これは、砂村新左衛門が万治2年(1659)宝六島(現在の南砂1丁目付近)を中心に、436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとったものです。
 新田の中央に小名木川から水をひいて、中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。
 この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヵ村の南を境にして、流れていることから、境川といわれました。
 その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年(1930)道路へと移り変わりました。

以前来た時ははここまでしか読めなかった。
今回はさらに薄くなっているね・・・・。











◆砂町小歩道橋

下は清洲橋通り













日本経済新聞社南砂別館











続く。