2020/03/17 羽田散歩 03 重の湯/鷗稲荷神社/入船湯/仲東児童公園/羽田第一水門/レンガの堤防/玉川弁財天

まだまだ、多摩川に沿って東へ進む。



◆重の湯




◆鷗(かもめ)稲荷神社




今から約290年前享保年間から天保年間にかけて江戸では三大飢饉が起り疫病、大火、洪水等があり人々は毎日の生活に苦しんでいた。当時どこの村でも神頼が始まり生活の安泰を祈った。
この稲荷神社は江戸時代の頃、弘化二年乙巳年三月吉祥日(鳥居に刻まれている)その頃に創立されたものと思われる。
祭神は宇迦之御魂命(食物を祭さどる神様)
当時、村人は、朝、夕とお参りをした。海上安全、大漁祈願、火伏の神様として多くの人々が参拝した。又、隣の厄神様は、厄除の神様として祭られている。
その頃の多摩川は、六郷川と呼ばれ鷗が多く群がっていた。その鷗につなんで鷗稲荷神社と名付けたと聞く。又、この辺は、徳川幕府の領内で六郷領であった。羽田は、六郷から東に向って上田、中村、西町、仲町、猟師町となっていた。仲町は、現在の横町町会、稲荷前町会、下仲町町会となっている。
その三町会の守護神として交代で守っている。
毎年初午祭にはお焚き火をたき、油揚げ、魚、小豆飯、等を供え、羽田囃子や初午太鼓で賑やかに執り行われている。
入口の鳥居は、安政の大地震、大正の関東大震災、太平洋戦争と、何たびかの困難を乗りこえて来た。本殿は太平洋戦争で焼失し今の本殿は戦後まもなく再建された。



厄神様




羽田道

 羽田道は、旧東海道(三原通り)の内川橋際から分岐し、大森東・南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る。江戸時代には羽田弁財天等への参詣に利用され、また羽田でとれた魚などを江戸に運ぶ道でもあった。
 鷗稲荷神社前は、羽田道の「羽田七曲り」の一つで、多摩川寄りの地域は漁業専業の「羽田猟師町」であった。この付近には鷗が多く、大漁の兆しとしてまつられたものという。



鳥居

この鳥居右側に「羽田道」の石碑が写っている。



◆入船湯



割と遠くから煙突が見えた。



◆仲東児童公園



◆羽田第一水門



◆レンガの堤防



◆玉川弁財天


水神社







続く。