ここでも中原街道を北に進む。
荏原警察署の写真撮ってたら職質される(w
「平塚の碑」がものすごく判りづらい場所にあったのでこちらからも質問した(w
古くは鎌倉へ通じる古道で、江戸時代には東海道の脇街道として往来の盛んであった中原往環(中原街道・相州道) 沿いに「平塚」と呼ばれる大きな塚があった。
伝承によると、後三年の役(1083~89)において八幡太郎 源義家をたすけた弟の新羅三郎 源義光は奥州からの帰途、この地において夜盗に襲われ多数の配下を失った。その霊を祀ったのが、この塚の由来とされている。
時の流れとともに、この塚は取り壊されたが地域の人たちによって昭和二十七年(1952)三月、「平塚の碑」が建立され、任承は受け继がれている。
目印はバーミヤン。
「平塚の碑」と案内が出ている。
ここから入って突き当り前に左折する。
◆平塚第一歩道橋
下は中原街道。
平塚橋と品川用水
品川用水の水路と旧中原街道が交差するところに架けられていた橋が平塚橋です。品川用水は、旱魃(かんばつ)で悩まされていた品川領二宿七ヵ村が幕府に願い出て、寛文九年(1669) に完成した農業用水路です。
水源は玉川上水の境村(現在:武藏野市境三丁目)で、分水されて現在の三鷹市、世田谷区、目黑区を通り小山台一丁目で品川区に入ります。さらに、用水の流れは小山ニ丁目(地蔵の辻)で二股に分かれ、左手は百反坂(ひゃくたんざか)通りの方向へ流れ桐ヶ谷(きりがや)、居木橋(いるきばし)へ、右手は戸越から大井村までの田畑を潤していました。
農業用水としての役割を担っていた品川用水も、大正から昭和に入ったころには急激に市街化が進み、排水路へと変わり、昭和二十三年(1948)にはその管理は三鷹町(現 :三鷹市)に移管され、その役目を終えました。現在、用水路の跡は道路や下水道として利用されています。
石碑とこの標識は、品川郷土の会はじめ地域の方がたによって建てられたものです。
〇二宿七ヵ村とは、北品川宿・南品川宿・戸越村・上蛇瘥村・下蛇窪村・桐ヶ谷村・居木橋村・二日五日市村・大井村です。
◆武蔵小山商店街
前にテレビで見たことがあるが、かなり大きな商店街らしい。
また今度。
◆一本杉元八幡神社
続く。