2020/08/03 港区芝散歩 08 河原埼座跡地/ふれあいの湯/金杉橋/浜松町四丁目児童遊園/金杉橋児童遊園/東京ガス本社

首都高速都心環状線第一京浜が立体交差しているとことで、第一京浜の東側へ出る。




◆河原埼座跡地

 七代目河原崎権之助が、現在地に開場した河原崎座において、明治7年7月9代目市川三団十郎を襲名す。
 河原崎座は、その後新堀座等に改称したが、明治18年11月に廃座となる。







◆ふれあいの湯



銭湯♪
で、良いと思うのだが、区立の施設となっているのでどうなんだろう?







◆金杉橋

上は首都高速都心環状線
金杉橋の下の川は「古川」




近くにあった地図。







◆浜松町四丁目児童遊園


旧町名由来板

湊町
 寛文七年(1667)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696)、 多門(たもん)建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主(おぼうず)の拝領町屋敷に下され、 一時は同朋町(どうぼうちょう)と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704~1711)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各所に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。 また、 俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。

土手跡町
 将監橋(しょうげんばし)と金杉橋との間、 金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。 寛文七年(1667)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝滨松町四丁目、芝中門前三丁目、芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、 多門建設計画の中止に伴い、真享二年(1685)、 土手は取り払いとなって、 その跡地へ町屋を開設し、土手跡町と唱えるに至ったと伝えられています。


新網町(しんあみちょう)
 むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、 漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626)より、ここから幕府に白魚(しらうお)を献上したので、 その褒美として同七年(1630)、名主惣十郎(そうじゅうろう)の先祖伝右衛門(でんえもん)を召し出し、海岸の百間四方(ひゃっけんしほう)の地を網干場(あみほしば)に与えられました。同十一年(1634)、 町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、 網干場に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。







◆金杉橋児童遊園


旧町名由来板

金杉(かなすぎ)
 むかしは荏原郡の内にあって、 金州崎(かなすき)、 金曽木(かねそき)または金杉と呼び、漁夫が住む村でした。しだいに商家が増加して金杉町(かなすぎちょう)となり、 寛文二年(1662) には町奉行支配となって、金杉通一丁目~四丁目、金杉裏一丁目~五丁目、金杉片町、金杉浜町など、11ヶ町に分けました。 町名の由来について、暗夜に金色の光を発して沖合より目印になった杉のような大木があった、 あるいは海辺
の洲崎であることから金洲崎といい金杉に転じた、 と伝えられていますが、 いずれが正しいかあきらかではありません。

金杉川口町(かなすぎかわぐちちょう)
 むかしは荏原郡部の内にあって、 金州崎、 金曽木または金杉と呼び、 漁夫が住む村でした。その後、 金杉町の一部となり、 寛文二年(1662) に町奉行支配となった際、金杉裏一、 二丁目として割り当てられた地域です。 明治二年(1869)、各々その一部が合併して金杉川口町となりました。 町名は、 金杉川(古川: 新堀川下流)が内海に注ぐ河口にあったことに由来します。

金杉浜町(かなすぎはまちょう)
 明治二年(1869)、金杉裏四、五丁目の大部分および西應寺町の一部分を併せて金杉浜町となりました。 金杉裏四、五丁目は、 むかしは荏原郡の内にあって、金州崎、金置木または金杉と呼んだ漁夫が住む村であり、 寛文二年(1662)に町奉行支配となった際、 割り当てられた地域です。町名の由来について一説には、海浜にあったことから浜町と唱えるようになったといいます。 明治四年(1871)までには芝金杉仲町(しんかなすぎなかまち)を併せました。

金杉河岸(かなすぎがし)
 金杉河岸は金杉橋と将監(しょうげん)橋の間の河岸地に位置します。 むかしは、金杉通一丁目に含まれましたが、 寛文七年(1667)、 御用地に召し上げられ、しばらく空き地となっていました。 天和四年(1684)よりしだいに幕府奥坊方主(おぼうず)の拝領地となり、金杉同朋町と称するに至りました (当時、 幕府御坊主を同朋(どうぼう)と称した)。明治二年(1869)、 官収して金杉河岸と改称しました。







東京ガス本社

ここに本社があったんだね。
すごい大きなビルだね・・・・。







続く。