日光街道を南下。
都営荒川線三ノ輪駅、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅にによってさらに南下。
公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約4メートル、高さ14メートル、樹齢は優に500年を越すものであったといわれる。
『遊歴雑記』(文政十二年〔1829〕)にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。
寺内に、天明七年(1787)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文十年(1670)銘手水鉢などがある。
◆下谷通新町
下谷通(現国道4号線)の両側に発達した町で、南は下谷三之輪町に続き、北は千住小塚原町に接続していて、町の広さは東西四十五間(約81m)、南北六町余(約654m)。
『御府内備考』によれば、寛文元年(1661)の割付に「小塚原新町」、元禄9年(1696)の割付に「下谷通新町」と見えるとされ、北隣の小塚原町から分かれて新町として成立したと推定される。
町名が下谷通新町に変わった時期は元禄8年(1695)頃とされ、町奉行と代官の両方の支配であった。明治十一年(1878)には下谷区に属し、明治十二年に下谷真正寺町を吸収した。明治22年に南千住町の一部となった。
◆三ノ輪橋商店街
商店街♪
◆ジョイフル三ノ輪
商店街♪
中は通らなかった。
◆常磐線高架
コチラをくぐって線路の反対側(南側)へ。
◆三の輪橋
三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が現在の日光街道と交叉するところに架けた橋である。橋の長さは五間四尺(約十メートル)幅三間(約六メートル)であったという
音無川は日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り常磐線ガード手前を右折、その右角は私立池谷小学校(明治二六年廃校)跡。そして現日光街道を横切り日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
明治四一年、三ノ輪が属する一六番分水組合が廃止され音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は都電荒川線の停留所名として残されている。
かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となっっため三ノ輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。
続く。