2020/08/03 港区芝散歩 07 御穂神社/宗光寺/芝商店街/法泉寺/西應寺/芝新堀町児童遊園

第一京浜のやや西側を北上する。
お寺がいっぱいあるエリアだった。



◆御穂神社







◆宗光寺







◆芝商店街

商店街♪








◆法泉寺








◆西應寺

幼稚園の敷地内にあったので外からお参り。



 田中山相福院西應寺は応安元年 (1368年)妙賢法尼(みょうけんほうに)により草創されました。妙賢法尼は前身を時姫といい、鎌倉幕府執権北条高時公の末娘にあたります。時姫は父高時の自刀や一門の悲惨な終馬の模様を伝え聞き、仏門に入りその菩提を弔うことを発願しました。後に出家し妙賢法尼と称して、この地に草庵を結び田中庵と号しました。
 天正十九年(1591年)には徳川家康公より寺領十石が寄進され、寺号が西往寺から現在の西應に改められました。町名が現在の芝二丁目に変更になるまで西應寺町とよばれた所が朱印地の一部で、境内地を含め9018坪という広大な寺領を有していました。
 当時の住僧十六世存同和尚は、百余人の僧を率い念仏三昧他力往生の宗風を示し、末寺八ケ寺、塔頭四ケ院を擁する名刹として江戸庶民の崇敬を集めました。
 安政五年(1858年)日蘭通商修好条約が結ばれると、同六年九月オランダ公使館が寺内に置かれました。
 その後、明治政府による神仏分離令関東大震災を経て、第二次大戦の空襲禍によって堂宇は烏有に帰すも檀信徒の信施を得て再興し、幼稚園の創設等、今日に至っています。



 オランダは長崎出島を本拠にし、江戸に所用がある時には日本橋本石町の「長崎屋」や、外交使節の場合は長忘寺を多く利用しています。
安政五年(1858)ドルケン・クルチウスが幕府と日蘭修好通商条約を結ぶ交渉の際には、真福寺を使用しています。芝周辺の大寺が外国使節の宿館として選ばれますが、西応寺もイギス使節エルギン卿一行の宿館として日英修好商条約の締結の地となります。
 昭和二八年(1953)一一月三日、アメリカ(善福寺)、イギリス(東禅寺)、フランス(済海寺)とともに、西応寺も「最初のオランダ公使宿館跡」として指定されました。日蘭修好通商条約締結により安政六年(1859)九月に西応寺に公使館が設置され、書院及び庫裏二階などが公使館として使用されたとされます。しかし、慶応元年(1865)以降に長応寺でのオランダ公使館に関する普請記録があることや、慶応三年(1867)十二月の薩摩邸襲撃事件の兵火で西応寺が全焼したことなどから短期間の使用であった可能性があります。公使館として利用された場所は、現在の幼稚園の場所あたりと考えられます


田中稲荷


山門







◆芝新堀町児童遊園


芝地区旧町名由来板

新堀町
 町名は延宝三年(1675)、古川下流を掘り拡げて以来、このあたりを新堀川と称していたことに由来します。 北は新堀河岸に沿い、金杉、西應寺、三田四国町、松本町に囲まれていました。古くは柴(しば)村の一部でしたが、後に金杉に属しました。
 明治五年(1872)、三草藩丹羽長門守(みくさはんにわながとのかみ)、柳本藩織田安芸守(やなぎもとはんおだあきのかみ)、薩摩屋敷の一部、大垣藩戸田采女正(おおがきはんとだうねめのかみ)の屋敷を合わせて新堀町としました。

西應寺町
 古くは柴村の一部でしたが、 天正十九年(1591) に西應寺の拝領地となりました。慶長十二年(1607)、 ここに市店を開くことが許され、寛文ニ年(1662)に町奉行支配となりました。 この町は門前町として発達してきたにもかかわらず、古くから西應寺門前とは称されず、ただ西應寺町と呼ばれてきました。
 明治二年(1869)に安楽寺門前を、明治五年(1872) に付近の寺地を合併しました。 新堀町との間を三田四国町(みたしこくまち)に沿って三田通りに抜ける道を俗に「七曲り」といい、昔は大名の御用商人などが軒を並べる繁華な小路であったと伝えられています。



河原崎座(かわらざきざ)
 河原崎座は江戸中期以降、 三座に限られた歌舞伎劇場の1つでしたが、安政二年(1855)の大地震で焼失してから興行権を失い、代わりにできた守田座の控え櫓(やぐら)となっていました。
 時代が変わり明治となると幕府による劇場統制はなくなり、多くの芝居が政府により免許をうけるようになりました。七代目河原崎権之助(九世市川団十郎(いちかわだんじゅうろう))の河原崎座も明治六年(1873 ) に許可をうけ、芝新堀町一番地に新築、翌明治七年(1874)に幕をあけました。 その劇場は芝区ではじめての大劇場であったといわれています。
 興行はそれまでの歌舞伎の伝統を無視した写実的かつ考証的な演出で、のちに有名な「時代物は活きた歴史ならざるべからず」という「活歴物(かつれきもの)」といわれる芝居のはじまりでしたが、江戸歌舞伎に親しんできた観客からの評判は悪かったようでわずか1年後には財政困難により新堀座と改称、中村座と合併興行するなどしていましたが、とうとう明治中頃に廃止されました。







続く。