2021/01/09 板橋徳丸散歩 05 大松橋跡/どんぐり山の森緑地/丸久保馬頭観世音/練馬北町6丁目アパート/稲荷神社/平和台駅

道路を新設?拡幅?工事中の場所を通ってどんどん南下。
ゴールの平和台駅へ。



◆大松橋跡

下は田柄川(暗渠)









◆どんぐり山の森緑地







丸久保馬頭観世音



 馬頭観世音 馬頭観音は数多くある観音のひとつで、一般的に宝冠に馬頭を載せ、降魔を表す忿怒(ふんぬ)の相をしています。馬にちなんで、多くは牛馬の息災や行路の安全を祈願しました。練馬区内には百三十基余りの石造の馬頭観音塔が各所に建っています。
 この塔は尊像の彫刻はなぐ、文字だけ刻まれた塔です。建立は江戸時代中頃と推定されます。もとは 富士街道丸久保の十字路にあったものですが、道路の拡幅工事で数回移転し、この場所へ移されました。 この塔は道しるべを兼ねており、行先各所と里程が刻まれています。正面には富士・大山・新高野(高野台の長命寺)、右面には新井薬師・堀之内(妙法寺)。雑司ヶ谷(鬼子母神)など信仰の道にふさわしい地名が見られます。
 また、正面に八王子・田無・府中、右面に高田・ 日本橋、左面と背面には赤塚・所沢・下板橋・戸田・ 練馬宿・板橋宿といった遠近各所の地名か旧所在地が往来の盛んな交通要路であったことをうかがわせます。








◆練馬北町6丁目アパート

都営住宅。
給水塔が高いね。







◆稲荷神社


境内社









平和台駅

ゴールの東京メトロ平和台駅





今回も最初の方(赤塚公園辺り)は起伏があった。
あとはなだらかなところだったので散歩しやすかった。
トイレ付きの公園は多かったけど、用を足しているときの様子が外から見える構造のトイレが多いね(w
寒かったけど、前半の勾配で体がポカポカしてたけど、手が冷たかったなぁ・・・・。

2021/01/09 板橋徳丸散歩 04 徳丸商店会/東第42号踏切道/北町五丁目歩道橋/新興橋跡/大松氷川神社/氷川神社富士塚

どんどん南下して東武東上線の線路を渡る。
さらに南下して川越街道へ。
川越街道を少し西へ移動しさらに南下する。



◆徳丸商店会

商店街♪








◆東第42号踏切道

東武東上線の踏切。









◆北町五丁目歩道橋

下は川越街道。









◆新興橋跡

下は田柄川(暗渠)



川越街道挟んで反対側へ田柄川が続いている。
一度わたってきたのだがもう一度わたって見に行ってみる。



この石塔?みたいなのは何か意味があるのかな?









◆大松氷川神社



 当社は「大松の氷川様」といわれてきました。大松とは下練馬村の小字の名です。
 祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。境内社御嶽神社日本武尊(やまとたけるのみこと))、富士神社(木之花開邪姫命(このはなさくのひめのみこと))、稲荷神社(保食神(うけもちのかみ)、白山神社伊邪那美命(いざなみのみこと))などがあります。
 さらに、この神社の特徴として参道脇に富士塚があります。江戸時代中頃から、江戸を中心に盛行した、富士信仰の丸吉講によって築かれたものです。頂上の石宮は天保六年(1835)再建、塚中腹の御手洗石は同九年(1838)再建と刻まれていますから、それ以前の築造であることにちがいありません。ほかに明治・大正時代の富士登山記念碑などがあります。ちなみに、鈴原神社の碑は富士山一合目にある同神社の登拝記念に建てたものです。これらの境内社や石造物から、当社は江戸時代より練馬近在の富士講・御嶽講など民間信仰の中心であったことがうかがわれます。


楽殿


鳥居1


鳥居2







氷川神社富士塚

大松氷川神社の境内にあった。




山頂からの眺め



梅が咲き始めていた。






続く。

2021/01/09 板橋徳丸散歩 03 石川橋公園/黄金湯/庚申塔(徳丸2)/「下駄」像/地蔵尊・庚申塔/徳石通り南広場/光徳湯

細い路地を南下。


◆石川橋公園






◆黄金湯

銭湯♪




だいぶ遠くから煙突が見えた。






庚申塔(徳丸2)







◆「下駄」像

上記「庚申塔(徳丸2)」の目と鼻の先にある。
作者は「山口克明」とあったので調べてみたのだが情報が見当たらない・・・。






地蔵尊庚申塔



 徳丸四丁目(原口)の庚申塔地蔵菩薩 向かって右が寛文八年(1668)十一月十 五日に道清以下二〇名によって造立された庚申 塔、真ん中が享保八年(1723)十一月二十 八日に徳丸講中一五人によって造立された庚申塔、左が元禄十三年(1700)十月に造立さ れた地蔵菩薩です。
 このような庚申塔を建立した庚申講は、中国道教の三尸説を基に日本の密教神道、習俗な どが合わさり成立した民間信仰である「庚申信 仰」のために結ばれた講集団です。三尸説とは、 人間の日常の罪科を体内に棲みつき監視してい る「三尸」という虫が、庚申の日の就寝時に天 帝へ報告にあがるというものです。それを妨げるには徹夜で寝ないことが必要となるため、 人びとは講を組み、青面金剛に祈りをささげ、 共同で飲食などをして語り明かしました。
 当庚申塔地蔵菩薩は、平成二十六年三月に これらを守る徳丸原念仏講によって新たに整備 されました。石像の上に小屋掛けがなされ、ま た角塔婆が建立されるなど地域の文化財として 大切に保存されています。 区内所在の庚申塔は、平成十六年度に区登録 有形文化財となりました。







◆徳石通り南広場






◆光徳湯

銭湯♪








続く。

2021/01/09 板橋徳丸散歩 02 観音堂/四葉観音堂/庚申塔(四葉2)/四葉稲荷神社/庚申塔/徳水亭/水車公園

前のエリアから細い路地を南東へ進む。



観音堂

中へ入れなかったので外からお参り。



庚申塔が見えた。
google mapには「庚申塔(大門2)」とあった。








四葉観音堂








庚申塔四葉2)

四葉観音堂脇にあった。








四葉稲荷神社



 御祭神は、保食神倉稲魂神です。 当社の由来は、詳細は不明ですが、元亀三年(1572)六月に創建されたといわれて います。
 幕府が編纂し、文政十一年(1828)に 成立した地誌『新編武蔵風土記稿』の徳丸四 ツ葉村の項には、「稲荷社 鎮守なり 村持」 と記されており、江戸時代以来、四葉の鎮守として信仰を集めてきたことがわかります。
 鳥居の脇にある灯籠は文化七年(1810) に伊勢代々講中が、また、狛犬は大正五年 (1916)六月に大山代々講中が奉納したことがそれぞれの銘文よりわかります。
 境内には末社として御嶽神社や菅神社、水神宮が祀られています。なお、御嶽神社が祀られている塚は、現在の四葉や赤塚で木曽 嶽を信仰していた講、赤塚一山元講によって造られたものです。これは、登拝講の活動状況や実態を示す貴重な遺跡であり、平成二十 八年度に区の記念物(史跡)に登録されました。


水神宮/他


境内社


八雲神社/須賀神社


御嶽神社



鳥居






庚申塔







◆徳水亭

立派な庭園と茶室があった。



板橋区立水車公園内 日本庭園
 この庭園は、「郷土の森に育まれた清流とその恵み」 をテーマとし、前谷津川の名残りとして水景を配して築造されています。大滝や泉、渓流や石などが独特な雰囲気をつくり出し深山幽谷の感を深めています。

茶室 德水亭 
 外観は銅板葺き、木造平屋造りの茶室です。浄土形式 の茶庭に囲まれ、四帖半本京間の小間と八帖本京間の広間に各々に水屋が付き、玄関、化粧室へと続いています。 草庵席は貴人口、にじり口には深い土ひさしを有し、踏石が置かれています。床柱や北山杉の面付柱・天井を野趣豊かな素材で造り上げている素朴なつくりの小間です。 書院席は庭に面した二方向に障子が開き、茶庭を眺めることができます。正面に床の間、明り取りの丸窓が開き引き分け障子の平書院造りの広間です。









◆水車公園

本物の水車があった。





水車には、上掛け、胸掛け、下掛けなどの種類があります。子の水車は上掛け水車で水流の落差を利用できる場所に設置する形式です。
水倫の直径は2.7mで、水の落下によってひき臼一つとつき臼二つを動かします。




 水車公園の前には、かつて前谷津川という小川が流れていました。
 前谷津川は、赤塚新町二丁目などの水源から水 を集め、赤塚・四葉・徳丸・西台・高島平を流れ、新河岸川に注ぎ込んでいます。早くから生 活用水として、また水田の用水として利用されてきましたが、周辺の宅地化にともない昭和五十九年(1984)に暗渠となりました。現在は、 その流路跡の一部が緑道となり、往時の流れを 辿ることが出来ます。
 この顕彰碑は、四ツ葉道が前谷津川と交わる 場所(現四葉一丁目十八番あたり)に架かってい た宮前橋を、大正十四年(1925)に架けかえするにあたり用地の提供をした芳川勇蔵と曾根田喜之助の二人を顕彰するために、赤塚村の人が世話人となって建立したものです。
 顕彰碑は、川の暗渠化により橋が廃止されてしまうと、放置され忘れ去られてしまいましたが、現在は橋のあった場所に近い水車公園内に 移されています。



日本の標准的炭焼窯
 木炭は世界各地で生産され大別すると、中国型、中東型、欧米型(近代的)に分けられる。日本の窯は中国型で排煙口が窯の奥の底に接した所にある。イランの炭窯は窯の上部にあり炭質も違ってくる。炭焼の歴史は1000年以上で、その地方に適した炭窯がつくられてきた。形態は様々であるが、運要なボイントは排煙口の位置と大きさである。煙道の大きさは、樹種によりことなりカシ類を焼く窯は煙道の出口が細く、ナラ類は太い。
カシ類はナラ類より炭化しやすいためである。この様に炭窯は地方により多少の差はあるが、ほとんど同じ型式でつくられてきた。




記念ノ碑 
維時大正拾年四月四ツ葉河岸道前谷津川、架ス宮前橋架換エ成ルヲ機トシ芳川勇蔵曽根田喜之助ノニ君ハ交通利便ノ為メ其ノ所有地ヲ割キテ岐ノ●路ヲ開キタリ寔ニ地方自奮ノ模範ト謂ツヘシ依ニ之ヲ石ニ刔テ後世ニ遺ス
●は手ヘンに走








続く。

2021/01/09 板橋徳丸散歩 01 新高島平駅/高島三中前歩道橋/首都高速5号池袋線/赤塚公園/沖口公園・沖山遺跡/赤塚諏訪神社/諏訪神社富士塚/観音堂

24時間勤務アケで都営三田線新高島平駅課から東京メトロ平和台駅まで散歩。
7日も同じ駅間を歩いたが今度は少し東寄り。



新高島平駅から南下。
首都高速当たりの史跡を散策する。



新高島平駅

スタートの都営三田線新高島平駅
この前の新高島平前歩道橋も一緒に撮った。










◆高島三中前歩道橋

下の道に特に名前はないみたいだ。




しかし、高島台の大地はすごいね・・・・。
酔っぱらって帰ってきたら家にたどり着け付きる気がしない・・・。







首都高速5号池袋線



こちらを通って高速の反対側へ。







◆赤塚公園

都立の公園。
左側の高架は「首都高速5号池袋線










◆沖口公園・沖山遺跡



 沖口公園がある場所は昔は「沖山口」と呼ばれていました。
 「沖山遺跡」とう名前は、この昔の字名に由来しています。
 荒川や高島平を望むこの高台には、昔から人々がかわるがわる暮らしていました。四葉地区の区画整理に伴う発掘調査と、隣にある都立赤塚公園沖山地区の遺跡範囲確認調査から遺跡の様子が少しずつわかってきました。
 沖山遺跡のなかで特に注目されるのは、弥生時代の溝をめぐらした環濠集落です。溝は沖口公園の一画を通り、都立赤塚公園沖山地区をめぐっており、集落は現在の広場の部分にあると考えられます。
 弥生時代には、このように張り出した高台の地形のまわりに溝をめぐらし、その中に集落を作り、生活をすることがあります。このような溝は、当時の生活をしていた人々を敵から守るものであったかもしれません。板橋区では志村城山遺跡、中台二丁目にある中台畠中遺跡、小茂根図書館が建った場所にある根ノ上遺跡にも同じような環濠集落が見つかっています。
 発掘調査では、弥生時代のほかに奈良・平安時代の住居や鎌倉・室町時代の溝も見つかっています。


空間のメビウス 古代からのいざない

牛尾敬三 作

『牛尾 啓三 (うしお けいぞう、1951年10月20日 - ) は日本の彫刻家。兵庫県神崎郡福崎町出身。兵庫県立姫路西高等学校、京都教育大学を経て、京都市立芸術大学に学ぶ。』
牛尾啓三 - Wikipedia



先客。









◆赤塚諏訪神社


諏訪神社無形文化財「田遊び」

 御祭神建御名方神(たけみなかたのかみ)。
 創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457~60)に信濃国諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永7年(1630)頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。
 江戸時代の江戸名所図会には「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りである。毎年二月十三日(旧暦の正月十三日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社殿に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じられている。
昭和五十一年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。


江戸・東京の農業 赤塚田んぼ

 この地は天保12年(1841)高嶋秋帆が鉄砲や大砲を使って兵を訓練したことが有名で、高島平と呼ぶようになりました。
 江戸時代、東は志村から徳丸、四葉を経て西は赤塚、新河岸あたりまでの荒川右岸一帯は台地からの湧水の多い湿地帯で、徳丸ケ原と呼ばれていました。ここに水田を作り正保年間(1644〜8)には4,900俵(294トン)の米が生産されていました。
 明治2年、徳丸ケ原は大がかりな開墾が行われ、大正5年には、352ヘクタールの水田から、14,000俵(840トン)の米を生産する穀倉地帯となりました。かつてこの地域は大半が旧赤塚村に属していたので、農家の間では「赤塚たんぼ」とよばれ春ともなると、菜の花やれんげの咲き乱れる広々としたのどかな田園風景でした。
 また、赤塚村には、長徳元年(995)より五穀豊穣と子孫繁栄を祈る国の指定重要無形民俗文化財の「田遊び祭」が、農家の人達によって今なお受け継がれています。


田遊びの碑


秋葉神社


境内社


境内社


境内社


水神宮


大国神社/稲荷神社/薬師神社


楽殿


夫婦イチョウ



赤塚諏訪神社の夫婦イチョウ
 樹種、いちょう(イチョウ科。樹高、約20m。目通り、雄株は約500cm・雌株は約420cm。樹齢、不明。
 本殿に向かって右に雄株、左側にやや小さい雌株がたっている。
 この夫婦いちょうは夫婦和合、子孫繁栄などの信仰と結びついて人々の心のよりどころとなっている。
 平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。


神門


鳥居







諏訪神社富士塚



 富士塚 は、一般的には富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。
 富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。
 また、富士塚への登山自体が、富士山登拝と同様の御利益があるとされています。なお、各地の富士塚では毎年七月一日前後に、富士山の山開きに合わせた祭礼が行われている所もあります。
 当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門 が開いた講中です。当地(旧下赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社境内の富士塚にある、明治三年(1870)に奉納された鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当地に伝播していた可能性が考えられます。
 また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
 当富士塚は、平成二十二年度、区の登録記念物(史跡)となりました。


山頂


山頂からの眺め



木がなければ富士山見える??





続く。

2021/01/07 赤塚散歩 08 田柄こぶし緑地/稲荷社/ハッスル通り商店会/桑の湯/東田柄橋/平和台駅

東田柄橋で田柄川(暗渠)を超えてさらに南下し平和台駅でゴール。



◆田柄こぶし緑地






◆稲荷社

よく見ると民家の敷地内にそれっぽいのが見える。
こういうところはgoogle mapに登録しない方が良いのになあ・・・。
で、散歩終わってしばらくするとマークが消えていた。







◆ハッスル通り商店会

商店街♪
下記「桑の湯」「東田柄橋」も商店街の中になる。









◆桑の湯

銭湯♪







◆東田柄橋

下は田柄川(暗渠)
『田柄川(たがらがわ)は、かつて東京都練馬区および板橋区を流れていた荒川水系一級河川。現在は、暗渠化され、一部区間が田柄川緑道として整備されている。 』
『光が丘の「秋の陽公園」では最上流を確認でき、田柄川をイメージした人工の水路が整備されている。 』
田柄川 (東京都) - Wikipedia

秋の陽公園
2020/12/15 練馬旭町散歩 08 本覚寺・旭町北野神社/仲台寺/光が丘パークタウン/光が丘公園/秋の陽公園/ふれあい歩道橋 - ovanの社会科見学








平和台駅

ゴールの東京メトロ平和台駅






赤塚公園辺りが小高い山のようになっていたので、そのあたりの勾配がややあった。
あとは平たんで歩くのは楽だった。
比較的暖かかったのだが、赤塚駅を超えたあたりから急に風が強くなり寒かった。
やはりあそこでゴールしておけばよかった(w

2021/01/07 赤塚散歩 07 地下鉄赤塚駅前商店会/喜久の湯/地下鉄赤塚駅/庚申塔(北町8)/富久江地蔵/田柄もくせい児童遊園

地下鉄赤塚駅から地下鉄に乗ろうと思っていたが散歩継続。
平和台に向かう。



地下鉄赤塚駅から平和台駅に向かってほぼ一直線に進む。



地下鉄赤塚駅前商店会

商店街♪









◆喜久の湯

銭湯♪






地下鉄赤塚駅






庚申塔(北町8)







◆富久江地蔵







◆田柄もくせい児童遊園










続く。