2021/04/03 立石散歩 03 アクアドルフィンランド/タカラトミー本社/徳念寺/證願寺/貞巌寺/源寿院/立石七丁目公園

前のエリアからほぼ京成押上線沿いにそって北東へ進む。



◆アクアドルフィンランド

銭湯♪









タカラトミー本社

以前来たことがある。
2020/04/15 01 「キャプテン翼」銅像巡り 02 葛飾区役所/タカラトミー本社/キャプテン翼(若林源三)/立石みちひろば/立石すずらん通り/四ツ木第8号踏切道 - ovanの社会科見学









◆徳念寺









◆證願寺

以前来たことがある。
こちらのお寺、なんとプラネタリウムがある。
2015/01/10 part2 プラネターリアム銀河座 - ovanの社会科見学









◆貞巌寺









◆源寿院









◆立石七丁目公園







続く。

2021/04/03 立石散歩 02 本奥戸橋/地蔵尊・他/地蔵堂/立石勘助児童遊園/立石稲荷神社(立石様)/立石3号踏切/立石西町商栄会

京成立石駅南側エリアを中川に沿って北上



◆本奥戸









地蔵尊馬頭観音・道しるべ




 この地蔵尊は、貞享二年(1685年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架設の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替え工事の為現在地に再度移転しました。
 地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。
 となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(1855年、江戸大地震の年)です。
 道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755年)旅人たちの役にたてようと建造したものです。
「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」永井荷風『断勝亭日乗』より


母の愛碑

人間の知・徳・体・の諸能力の調和的発展の基本は家庭及び万人就学の小学校での基礎陶治にあり、その方法は直観・自発活動・作業と学習の結合に基づく
ベスタロッチ






地蔵堂







◆立石勘助児童遊園



近くに咲いていた花。
カキツバタ






◆立石稲荷神社(立石様

以前も来たことがある。
2017/04/16 京成立石散歩 02 立石諏訪神社/梅田稲荷神社/帝釈天道標/立石/熊野神社/奧戸橋 - ovanの社会科見学
はてなで日記を書く前にも来ている。



 立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山(のこぎりやま)周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石(ぼうしゅういし)で、最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cmが地上部に露出しています。もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。
 一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。
 江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け、暖かくなると元に戻る「活蘇石(かっそせき)」として、『江戸名所図会』などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で 囲われるようになったのは文化年間(1804~1818年)以降で、その周囲には柳や小竹が繁茂する、社義(しゃそう)を呈していました。
 『雲根志』には、立石が高さ二尺(約60.6cm)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られていきました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。
 なお、大正十二年には人類学者の鳥居龍蔵(とりいりょうぞう)がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇ニ郎(なかやじうじろう)、大場磐雄(おおばいわお)ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。
 東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがい知ることができ、日本先史時代の研究史上重要な遺跡です。





立石児童遊園

この公園内に立石様が祀られている。






◆立石3号踏切

京成押上線









◆立石西町商栄会

商店街♪








続く。

2021/04/03 立石散歩 01 京成立石/かわばたコミュニティ通り/喜久の湯/川端稲荷神社/立石子育地像/喜多向観音菩薩

24時間勤務アケで、最初に京成押上線京成立石から京成本線青砥駅まで散歩。
次に京成本線京成関屋からJR北千住駅まで散歩した。



最初に駅南側エリアを散策。
ほぼ毎年身に来ているかわばたコミュニティ通りの桜がお目当て。



京成立石

スタートの京成押上線京成立石駅











◆かわばたコミュニティ通り

例年なら桜祭もしていたんだろうに・・・・。
横断幕もなかった。
寂しいねぇ。


]














◆喜久の湯

銭湯♪









◆川端稲荷神社

ここは3回目。
2017/04/16 京成立石散歩 01 かわばたコミュニティ通り/白髭神社/王子白髭神社/川端水神社/川端稲荷神社/五輪塔/原稲荷神社 - ovanの社会科見学

2018/11/20 北上台散歩 02 蔵敷庚申塚/本村山橋/村山橋/奈良橋稲荷/蔵敷東こども広場/川端稲荷/八幡橋 - ovanの社会科見学



 当神社の御祭神は、「命の根の神様」として日本の信仰の中でも最も庶民的な神として崇敬されています。御神徳が食と命という人間の根本に関わるもので、常に諸民の側で願い事をお聞き届けになるという神様です。その御神徳は実に広大無辺で商売繁盛、家内安全等人々の生活と深く関わっております。
 創建以来二百有余年、近年では明治四十三年と昭和二十二年の大水害、大正十二年の大震災等度重なる災害をうけ、また、昭和四十五年、本田中学校用地の拡充に協賛し、現境内地に御遷座、「境内地は地元有志が寄進する」とありましたが、先人の英知で幾多の難関を乗り越え今日に至っております。しかし、最近特に老朽化が進んだため、今回氏子皆様の御奉賽によって御造営に至りました。










◆立石子育地像



少し離れたところにもお地蔵様がいらっしゃった。



文字化を断念・・・・。



奥の方に写っているのぼりが子育地蔵尊のもの。









◆喜多向観音菩薩



今から266年前ころ寛保元年1741年、徳川8代将軍、吉宗候時代鷹狩りにお出になる将軍家の御膳所寺、南蔵院と言う真言宗の寺、<<妙本>>という尼さん、金龍山浅草寺を深く信仰して千日詣の大願を起こせり、愈々念願の日、枕頭に金色燦燦と輝ける観世音菩薩のお姿が現れ、汝の願い正に叶う可し、喜び多く向わんと、謂うや何処ともなく姿を消してしまった。
そのお礼にと、建てたのがこの喜多向観音でございます。
世の為め人の為喜び多く向かい給えと喜多向観音にお参り信仰する者には必ず一つは叶うと言い伝え、今日に至るまで参詣する人絶えることなく諸々の苦悩を救う観世音、喜び多く我に迎えむ、ご利益を頂戴する者数限りなし、霊験殊に現たかなり、賽人謂集して盛況を極む、
千日の願へは叶う観世音、喜び多く我に迎へよ









続く。

2021/04/01 王子本町散歩 09 王子子育地像尊/王子神社/北区役所/王子神社のイチョウ/音無親水公園/王子駅

さらに線路沿いに進んでJR王子駅でゴール。



◆王子子育地像尊

王子大坂坂下にあったお地蔵様。



王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫(まるぼり)した、122cmの石造地蔵菩立像です。釈迦如来が没してから弥勤菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する善薩と信じられてきました。
地蔵尊は、昭和二十年(1945)四月十三・十四日の空襲にって火を浴び、像の表面が利落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。
 昭和三年(1928)一二月に出版された『王子町誌』によれば子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が普願して室町時代の末期、天文元年(1532)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が和られていたことが推測されます。
 また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥(おびただ)しく、縁日商人の露店を張るものも頗(すこぶ)る多いので、その賑ひ真に筆の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰をめていたことが知られます。
 お唱えする言葉
「おん かかか びさんまえい そわか」
※私有地に建っておりますので、お静かにお参り下さい。









王子神社

何度か来たことがある。
2018/03/29 王子散歩 王子駅/音無親水公園/王子神社/北とぴあ/飛鳥山(花見) - ovanの社会科見学
はてなで日記を書く前にも来ている。
mixiに残っているかな?



 元亨二年(1322|)、豊島郡を支配していた萱島氏が熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として紀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。
 王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康社領として二〇〇石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に降接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や魔狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も析願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。
 紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭札は「槍祭」とよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。
 明治時代にはいると明治元年(1868)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。
 戦前の境内は「太田道瀧雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観にっています。
 末社 関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者により信仰されている全国でも珍しい「髪」の祖神です。


関神社・毛塚



「髮の祖神」関神社由緒略記
御祭神
蝉丸公 神霊
逆髪姫 神霊
古屋美女 神霊

「これやこの 行くも帰るも 別れては
 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公 」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社 」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社 」境内に奉斎したのが、当「関神社 」の創始なり。 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。

毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎 に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助 とする。


王子田楽

王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って、毎年8月、王子神社の例祭で、神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓(つづみ)・筅(ささら)・太鼓方が笛に合わせて踊る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会によって保存・伝承されています。


鳥居








◆北区役所








王子神社イチョウ




 音無川(石神井川)左岸崖線の肩の部分に一際高くそびえ立つ大イチョウです。幹囲5.3m、樹幹の先端部は欠損していますが高さは24.2mあり、全体的にはほぼ自然樹形を保っています。
 王子神社の創初については、飛鳥山公園内にある「飛鳥山碑」(都指定有形文化財・古文書)に書かれています。それによれば、元亨(げんこう)年間(1321~24)に豊島氏が勧請したことが始まりとされていますので、その頃にこのイチョウが植えられたとすると、600年近い樹齢と考えられます。
 戦災によって王子神社の社殿や太田道漢が雨宿りをしたという伝説を持つシイの大木など多くのものが失われた中で、このイチョゥは生き延び、今も高台から東京の街の移り変わりを静かに見つめています。








◆音無親水公園










王子駅

ゴールのJR王子駅







勾配のきついところが数か所あった。
ちょっと膝が痛くなった。
歳だね(w
ものすごくのどが渇いた。
最初にアルコールを入れてしまうとダメだなあ。。。。

2021/04/01 王子本町散歩 08 稲荷前ガード/石人と望柱石/馬頭観音/権現坂ガード/権現坂/王子大坂/三本杉橋の親柱

まだまだ線路沿いに南東へ。
ここでは一度線路をくぐってまた戻る。



東北線(53)稲荷前ガード

こちらをくぐって線路反対側へ。











◆石人と望柱石

北とぴあパークという公園内にあった。



 ここにある石造物は、朝鮮でつくられたものです。中央にある人の像は石人(せきじん)といい、た両端の柱は望柱石(まんじゅうそく)といいます。ふつう、二体・二本で一対をなします。中国では古くから宮殿・廟(びょう)・墳墓の近くに置かれていました。唐の時代からは、墳墓の参道に規則正しく置く風習が盛んになりました。それが朝鮮に伝わり、それ以降の墳墓にはこの形態でつくられました。ここにある石人は花こう岩に文官、を彫ったもので、日本の江戸時代にあたる朝鮮(李朝)時代後期のものです。また着用している衣の表と裏にある模様は役人の官位をあらわします。
 望柱石は墳墓の参道の入口に標識として置かれて、葱の花の形のような擬宝珠をのせた八角形のものです。その八角形の一面に獣が浮彫りにされ、また擬宝珠の下に雲形の模がみられる点が特徴的です。








馬頭観音




google mapには載っておらず、青いマークの少し下あたりが観音様の場所。








東北線(52)権現坂ガード

今度はこちらを通って線路の反対側へ。









◆権現坂

坂はまっすぐではなく途中王子神社の方へ左折する。










王子大坂








◆三本杉橋の親柱

権現坂坂下の辺りだが、何も見当たらない・・・・。



google mapのマークは、上の写真の所辺り。


飛鳥山(あすかやま)に沿って東におりた岩槻街道(いわつきかいどう)は、石神井川(しゃくじいがわ)を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱(おやばしら)の位置から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。
岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道(*1)と呼ばれた。登り口に子育地蔵(こそだてじぞう)があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日(えんにち)でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥(うとう)の嘴(くちばし)のようなので「うとう坂」の名もある。』
北区の坂道王子大坂|東京都北区







続く。

2021/04/01 王子本町散歩 07 南大橋/ちんちん山児童遊園/三平坂/名主の滝公園/金輪寺/王子稲荷神社/王子稲荷の坂

ここでも線路沿いに南東へ進む。



◆南大橋

橋を渡らずに左側の階段を下に降りた。








◆ちんちん山児童遊園

上記南大橋の下のあった公園。



このタイプの看板、退色がものすごく激しい・・・・。








◆三平(さんぺい)坂

坂下。


坂上


 名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は,江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある 十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても 利用されたようである。








◆名主の滝公園




本園は嘉永年間(1848~1854)王子村の名主畑野孫八が自邸に開いた江戸情趣豊かな庭園で台地の斜面を巧みに利用し自然の風景を取り入れ園内の滝は古来王子の七滝の一つとして著名です。
明治時代の手法を残す都内でも数少ない貴重な景勝地なのでご入園なさる方は左記の事項を固く守り本園の保存にご協力ください。


男滝






サトザクラ




薬医門









◆金輪寺









◆王子稲荷神社


額面著色鬼女図

 日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真(しばたぜしん)作の額面著色鬼女団(がくめんちゃくしょくきじょず) は、天保十一年(1840)二月初午に、江戸住吉の砂糖商の同業組合である明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵馬です。
 絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっばいには、酒呑童子(しゅてんどうじ)の家来茨木童子(いばらきどうじ)が化けた鬼女の姿が描かれ
ています。
 源頼光の家臣渡辺網(わたなべのつな)は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、 その女の片腕を切り取ってしまいました。六日後のこと、鬼女 は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺網の伯母に 化けて、網の屋敷を訪れま す。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に発び去りました。この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌(めんぼう)との対照が 場面の凄みを高め、 慄然(りつぜん)とさせ、是真の名を世 に知らしめる契機となったと伝えられます。


亀山稲荷/嬉野守稲荷/北村稲荷


御石様

願いを念じつつ持つ石の軽重により御神意が伺えるといふ


狐の穴跡


稲荷社


鳥居


参道入口

入ってすぐのところに幼稚園があるため、開園中は少し左へ行ったところにある稲荷坂を上って入ってくださいとのことだった。



近くに本社がある「なとり」が!
こういうことができる企業は好感が持てるね!!








◆王子稲荷の坂

坂下。


坂途中。
左側が稲荷神社の敷地。
坂上まではいかなかった。
標識などは見当たらない。








続く。

2021/04/01 王子本町散歩 06 庚申塔/南橋トンネル/十条駐屯地の赤煉瓦造建築物/昭和三十二年銘の庚申塔/芝坂/中十条一丁目歩道橋/王子消防署十条出張所

北上してJRと新幹線の線路にあたる。
その後は線路沿いに南東へ進む。



庚申塔




左・万治二年
右・承鷹三年
と書いてある。
後ろの公園が南橋児童公園。








◆南橋トンネル









◆十条駐屯地の赤煉瓦造建築物



 現在の十条駐屯地の敷地は、約116,000㎡(約35,000坪)ですが、この地域一帯を明治38年(1905)に陸軍が購入して、東京砲兵工廠銃砲製造所を建設した当時は、約330,000㎡(約100,000坪)の広さでした。幾多の変遷ののち第2次世界大戦時は、東京第一陸軍造兵廠として、これらの施設は当初から、一貫して小口径の弾薬を製造する所でした、当時の敷地には、明治後期から大正に建設された大規模な赤煉瓦建築物が50棟以上あったことが確認されています。戦後は、米陸軍東京兵器補給廠として使用されましたが、昭和34年(1959)自衛隊に移管され、約39年間陸上自衛隊武器補給処十条支処及び諸隊が所在する駐屯地でした。自衛隊に移管された頃は、赤煉瓦建物22棟と鋼製耐震煙突2基が残っていました。これらに使用された赤煉瓦は、全国の大規模な煉瓦工場のほか、地元の荒川、隅田川流域の中小の煉瓦工場で製造されたものです。これらの赤煉瓦は、新庁舎建設のため平成5年(1993)から遂次解体されましたが、解体された赤煉瓦の一部が正門、新庁舎のエントランス等に利用されています。

煉瓦造254号建物
 このモニュメントは、大正7年(1918)変圧所として建設された「煉瓦造」平屋建ての建築物254号建物の一部を利用し作られたものです。建築物の規模は、桁行(東西)方向が36.04mで10スパン、梁間(南北)方向が14.20mで4スパン軒高が5.85mであり、屋根は4寸5部後輩のスレート葺き(昭和40年代に長尺カラー鉄板葺きに改修)でした。小屋組は、木造のクイーンポストトラス、外壁の煉瓦の積み方はオランダ積みであり、腰部は焼き過ぎ煉瓦、その上部は一枚半積みでした。北面には切妻の破風があり、白の碍子が埋め込まれ(南側には茶の碍子)受電施設の痕跡を残していました。大正期に建設された煉瓦の建築物の小屋組は、ほとんどが鉄骨造りでありましたが、この建物が木造の小屋組としているのは、変圧所という建物の機能から、通電性の高い鉄骨材料をあえて採用しなかったためと考えられます。



右が十条駐屯地、左がいなりパークの敷地。








◆昭和三十二年銘の庚申









◆芝坂

坂上



坂上からの景色。



坂下。
特に標識などは見当たらなかった。


芝坂ではないが、坂下から名前のない坂(階段)が続いていた。











◆中十条一丁目歩道橋

下は本郷赤羽線
鋭角な「L」字型の歩道橋だった。











◆王子消防署十条出張所

中十条一丁目歩道橋の上から撮った。







続く。