2017/08/21 02 神田散歩 02 物揚場跡/豊展観守像/大田園三のレリーフ/神田橋/学習院(華族学校)開校の地/東京電機大学跡地

神田橋までは西へ進む。
そこからは北東方向の神田駅の方に向きを変える。
今回は道に迷わず計画通りに歩けた(w



◆物揚場跡

日本橋川水道の物揚場標石ここに出土す
往時をしのぶよすがとして後世に伝える




前の日記の「内神田一丁目」の町名板のすぐ脇にありました。



◆豊展観守像



この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。




◆大田園三のレリーフ

大正十二年関東大震災の直後、〇に選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ、復興事業の根幹で然も極めて難事業であつた区画整理、およびこれに基く土木工事の計画遂行に直面して、献身的努力をなすこと二年余、事業の基礎漸く成事業の犠牲として、惜しくもその生命を絶つたのであります。
昭和六年復興事業の完成に當り、先輩知友相寄り、氏の功績を偲び記念としてこの彫像を、深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが、太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので、昭和三十年春それを修復の上、この地に移設したのであります。


〇=削れて見えない。「民」でいいのかな?
漸く=ようやく
當り=あたり
↑読めなかったので調べた(汗


関東大震災後の区画整理で、自殺したってことだね・・・・。
よほどの心労だったんだと思う。
ご冥福をお祈りします。



◆神田橋










 この橋を神田橋といいます。慶長七年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」にも橋が描かれ「芝崎口」と名が記されています。
のち、近くに拝領屋敷があった土井大炊頭利勝に因んで「大炊殿橋」と呼ばれていました。
さらに、神田の町へ出入することから「神田口橋」「神田橋」と呼称が変わってきました。
 ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ神田橋門がありました。
橋を渡った大手町側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。
 神田橋門は、寛永六年(1629)に、稲葉丹後守正之によって構築されました。
この門を通る道筋は、将軍が菩提寺の一つである上野寛永寺へ参詣する御成道にあたりますので、厳重に警備されていました。
鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備され、外様大名で七万石以上の者、あるいは国持大名の分家筋で三万石以上の者が、警備を担当していました。
 江戸時代、白酒で評判だった豊島屋も昭和初期までこの近くにありました。
現在の橋は、大正十四年(1925)11月架設、長さ十七、三メートル、幅三十四メートルです。




学習院華族学校)開校の地






 弘化四年(1847)京都御所の日御門前に公家の学習所として設立された「学習院」は, 明治十年(1877)華族学校「学習院」としてこの地に創立されました。
 同年十月十日に明治天皇,、皇后両陛下をお迎えして開業式がおこなわれました。
 現在学習院は、豊島区目白に大学、高等科、中学か、幼稚園、新宿区戸山に女子高等科、女子中等科、新宿区若葉(四谷)に初等科の各学校を設置しております。この碑は、学習院創立百二十五周年記念事業として、学習院の同窓会である桜友会の寄贈により建立したものです。




東京電機大学跡地

google mapに載っていたので来てみた。
説明板など無し。
調べたら東京電機大学神田キャンパスのあった場所で、21階建てのオフィスビルを開発している場所のようです。


住友商事さんのこちらのページ参考
http://www.sumitomocorp.co.jp/news/detail/id=29969


この場所で合ってるのかどうかの検証ができてないので、ハッキリとは言えないが、おそらくこの場所だろう。
工事関係の看板をちゃんと見ておけばよかった。
で、この場所をぐるっと1周してみたらgoogle mapに載ってない神社を見つけた。


というところで次に続く。

2017/08/21 01 日本橋散歩 03 東京水辺ライン日本橋発着場/漱石の越後屋/三囲神社/日本銀行

日本橋までは川の南側を東進。
そこからは川の北側を西進。
日銀の脇を通ってJRの線路の反対側に向かう。



東京水辺ライン日本橋発着場

やはり高速道路のせいで薄暗いねぇ・・・・。




漱石越後屋

漱石は小学校へ上がる前に黄八丈や縮面を買いに越後屋へ連れられて来た。
夕暮れに雨戸を操る音、店先の暖簾の色は永く記憶に残った。
虞美人草浴衣は高級人気品として今なお語り継がれている。




明治の文豪夏目漱石の作品には、越後谷呉服店三越呉服店、そして現在の百貨店三越にいたるまでたびたび三越が登場いたします。平成18年12月、漱石に造詣が深い早稲田大学の武田名誉教授の発起により、漱石所縁の場所である三越日本橋本店屋上に、同大学元総長奥島先生に運毫いただいた石碑を設置いたしました。
中央区内では、平成16年1月に漱石の代表作「吾輩ハ猫デアル」が上演された真砂座があった日本橋中洲に「真砂座の碑」が、そして平成17年6月には日本橋一丁目に「漱石名作舞台の碑」がそれぞれ設置されており、この三越日本橋本店で3ヶ所目となります。




ということで、知らないうちに3か所全部巡ってたみたいだ。


「真砂座の碑」
2017/06/01
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170601/1496713981
ここでは「真砂座跡」と紹介している。


漱石名作舞台の碑」
2017/06/20
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170620/1498423628
ここでは「漱石名作の舞台の碑」と紹介している。



◆三囲神社







漱石越後屋と三囲神社、なんとデパートの屋上にあるのだ!



催事場に何度か行ったことがあるけど、屋上にこういったものがあるとは思わなかったなあ。
調べれば調べるほど行きたい場所が増えてくる・・・・。




日本銀行
今回は写真など撮らなかったが、中を見学したことがある。


2015/02/26

http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20150226/1425670838



併設の「貨幣博物館」にも行ったことがある。


2013/08/27

http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20130827


散歩はまだまだ続くが、エリアが「神田」に変わる。

2017/08/21 02 神田散歩 01 龍閑橋/出世不動尊/御宿稲荷神社/内神田一丁目/物揚場跡

日銀からJRの高架下を反対側に行ったところに「龍閑橋」があり、そこから再スタート。
神田駅を目指す。




◆龍閑橋



龍閑橋の歴史と由来
 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」という人の家があったことに由来します。
「明治東京名所図会」より



「名所図会」っていったいいくつあるんだろう・・・・。
って、思ってしまった(w




龍閑橋について
 この橋は 大正15年(1926年)に作られた日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変珍しい橋です。
 これを記念するため その一部をここに保存します。




龍閑橋の三叉路(T字路?)

脇に小さな公園のような場所に柵があり、その中に橋が保存されていた。





◆出世不動尊






◆御宿稲荷神社




読み方を調べてみたら、
「オヤド・オンジュク・オンヤド・ミジク・ミシュク」
と、定まってないとのことだった。




◆内神田一丁目

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用しました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺日光東照宮への御成道(おなりみち)(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。
明治五年(1872年)、いったん美土代町(みとしろちょう)となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。
昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。



やはり読み方の難しいのがあるなあ。



まだまだ続く。

2017/08/21 01 日本橋散歩 01 旧呉服橋駅跡/越前福井藩邸跡/越前福井藩邸跡/常盤橋公園/渋沢栄一像/常盤橋

24時間勤務アケで、日本橋と神田を散歩してきた。
疲れが取れないのでどっちか片方にしようと思ったが、
ついつい歩いてしまう・・・・。


スタートは東京駅丸の内口

普段撮らない角度で写真撮ってみた。
駅前の工事がだいぶ終わり、広場になっていた。




◆旧呉服橋駅跡

google map に載っていた場所である。
説明板などなかったので写真の場所で合ってるかわからない。
WEBで調べてみると、
1910年(明治43年)9月15日〜1914年(大正3年)12月20日の間だけに存在した仮の駅だったとのこと。
東京駅開業に伴い廃止したとあった。




◆越前福井藩邸跡

ここもgoogle map に載っていた場所。
説明板などはなかった。
福井県のHPを見ると、ここで合ってるらしい。
が、そのほかの詳しい情報などは見つからなかった。
http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/tokyo/fukuinoasiato/fukuinoasiato7.html




◆常盤橋公園

残念ながら工事中・・・・。
しかも2011年大震災の復旧工事とのこと。
まだまだ震災の爪痕が残ってるんだねぇ。
常盤橋御門と旧常盤橋が残ってるとのこと。





渋沢栄一

僕が歴史上の人物で尊敬する人の一人。
日本資本主義の父といわれる人である。
この銅像は戦争中に撤去(金属類回収令)されたが、昭和30年に再建されたとあった。


調べ方が足りないのか、何でここに建っているのかまではわからなかった。



急に金属回収令で集められたものが、何になったか調べようと思ったら、このページにたどり着いた。
http://gunji.blog.jp/archives/1046862674.html



忘れていたが、だいぶ前にもここに来たことがあったようだ。


2013/08/27
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20130827/1377992341



日記をを見ると「ていぱーく」に行った帰りだった。
そういえばこのあたりにあったんだよなあ。
今は「ソラマチ」の中に引っ越している。
だいぶ規模は小さくなってしまったのが残念。




◆常盤橋




こちらは新しい常盤橋。
説明板などは公園の中?
復旧したら見に来よう。




橋から日本銀行が見えた。






続く。

2017/08/21 01 日本橋散歩 02 一石橋/一石橋の迷子しらせ石標/竹久夢二港屋跡/西河岸橋/日本橋

日本橋川沿いにどんどん東へ向かう。
日本橋川を覆うように高速道路があるので圧迫感がある。
いつかは無くしてほしいなあ。



◆一石橋





一石橋の迷子しらせ石標



 江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
 柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。



で、上の写真をよく見ると、下の方に「不」の字に似たマークみたいなものがあるが、几号水準点である。
市ヶ谷亀岡八幡神社文化財になってたものだね。
その時の日記はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170723/1501323849



竹久夢二港屋跡




 情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(1884〜1934)は、大正3年(1914)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で「港屋」は日本商業美術史上重要な意義を持つものでありその存在をながく記録にとどめるためここにその記念碑を設置し、個人の業績を讃えるのものである。
 なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約13米、間口約2間(3.6米)であった。



しかし、読みにくいね・・・・・。
こういう時のためにミラーレス買ってよかった。
拡大すると何とか読める(w



日本橋

竹久夢二港屋跡すぐ近くに日本橋駅A1出口があった。



日本橋










 日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする5街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、昭和四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、平成十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。




日本橋魚河岸跡

 日本橋 から江戸橋 にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸 」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売りだしたことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢のよい取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、対象十二年(1923)の関東大震災 後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸の有ったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑が有り、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。




日本国道路元標




 日本橋は1603年に創築され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に築橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の現在の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノベール平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。




上の写真左側にある日本国道路元標。
これ、レプリカで本物が見えづらいところに存在するという!
探しに行こっと(w


里程標

読み方に自信がないので調べたら(りていひょう)で合ってるみたいだ。
ここから  〇〇里  ってことだろうが、「粁」=キロ ってなってるね。



まだまだ散歩は続く。

2017/08/21 02 神田散歩 03 豊川稲荷/神田錦町二丁目/東京電機大学/真徳稲荷/和光稲荷/神田駅

散歩の途中、このエリアには製薬会社が多いことに気が付いた。
アース製薬武田薬品大鵬薬品大塚製薬・・・・・・
有名な企業さんだらけ。

で、気になってちょっと調べてみた。


もともとこのあたりに薬問屋が多く集まっていたことに由来。
1687年に刊行された『江戸鹿子』という書物には、江戸には36件の薬種問屋・製薬屋があり、医者の数は72にのぼったという記録が残されているとのことだった。


薬問屋が多く集まっていたことに対しては探しても見当たらなかったので推測だが、城下町の特徴として同業者を一か所にまとめて町づくりをしたので、江戸城下では薬屋はここに集まりなさいってことだったんだと思う。
推測なので真にうけないでねー。


散歩は終盤。
東にある神田駅に向かって進む。



豊川稲荷神社

先ほどの東京電機大学跡の周りをぐるっと周ったら見つけた。




神田錦町二丁目

江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねる地域でした。当時の武家地には町名がなく、かわりに「錦小路(にしきこうじ)」という通称で呼ばれていました。もともとは「二色(にしき)小路」という字を当てていたとされるこの呼び名は、近くに一色(いっしき)という名の旗本の家が二軒あったことに由来するといわれています。
錦という名の由来については、この周辺を所有していた護持院(ごじいん)に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂が建っていたためという説、住人が京都にある錦小路にあやかりたいと考え、錦と付けたという説もありますが、本当のところははっきりしていません。
護持院は、享保二年(1717年)の大火で跡形もなく焼け落ちてしまいました。江戸城外堀に隣接する地域で起こった火事に幕府関係者は驚き、護持院の跡地だけでなく、周辺の武家屋敷も召し上げて火除地(延焼防止の空き地)としました。この広大な火除地はのちに「護持院原(ごじいんはら)」と呼ばれ、将軍の鷹狩などがおこなわれました。
神田錦町二丁目という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことです。明治十八年(1885年)には、中央大学の前身である英吉利法律学校(いぎりすほうりつがっこう)が開学しています。明治四十年(1907年)に小川町で開学した電機学校(東京電機大学の前身)は、昭和になってこの町内に移ってきました。武家地だったこの界隈は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。
明治四十四年(1911年)、町名から神田が外され錦町二丁目に変更されますが、昭和二十二年(1947年)にはふたたび神田錦町二丁目となり、現在に至っています。




東京電機大学

先ほどの跡地のほかに建物があった。




◆真徳稲荷神社






◆和光稲荷神社

マンション?の公開空地の中にあったのだが、その建物には誰もおらず、立ち入りができないようにフェンスに囲われていた。
建て替えるんだろうか?
せめて神社の所だけは入れるようにしてほしかったなあ。




◆神田駅

ゴールです。
財布の中身が潤沢だったら、この時散歩したエリアに住んでみたいなあと思った。
歴史があって新しいものもあって、なにより活気があって元気になれそうな街だった。