日銀からJRの高架下を反対側に行ったところに「龍閑橋」があり、そこから再スタート。
神田駅を目指す。
龍閑橋の歴史と由来
もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」という人の家があったことに由来します。
「明治東京名所図会」より
「名所図会」っていったいいくつあるんだろう・・・・。
って、思ってしまった(w
龍閑橋について
この橋は 大正15年(1926年)に作られた日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変珍しい橋です。
これを記念するため その一部をここに保存します。
龍閑橋の三叉路(T字路?)
脇に小さな公園のような場所に柵があり、その中に橋が保存されていた。
◆出世不動尊
読み方を調べてみたら、
「オヤド・オンジュク・オンヤド・ミジク・ミシュク」
と、定まってないとのことだった。
◆内神田一丁目
江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用しました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(おなりみち)(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。
明治五年(1872年)、いったん美土代町(みとしろちょう)となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。
昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。
やはり読み方の難しいのがあるなあ。
まだまだ続く。