2022/02/01 神田散歩 02 鎌倉橋跡/龍閑橋/地方銀行協会/東京都水道局千代田営業所/コーヒーハウスロフト/松屋

前の日記鎌倉橋で江戸川を渡った後また東へ進み、コーヒーハウスロフから北へ移動。





◆鎌倉橋跡


神田鎌倉町・鎌倉河岸

 天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603年)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。
 家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657年)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方(さくじかた)の大棟梁(だいとうりょう)として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。
 また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園(おじまこうえん)のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。
 昔、潮入りの葦原(あしはら)だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843年)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。
「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除(おもてきもんよ)けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師(ちしょうだいし)の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。









◆龍閑橋

見覚えあると思ったら前に来たことがあった。
2017/08/21 02 神田散歩 01 龍閑橋/出世不動尊/御宿稲荷神社/内神田一丁目/物揚場跡 - ovanの社会科見学



龍閑橋の歴史と由来

 もともと、神田の堀に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで「龍閑川」と名付けられました。今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」という人の家があったことに由来します。
「明治東京名所図会」より


龍閑橋について

 この橋は 大正15年(1926年)に作られた日本最初の鉄筋コンクリートトラスの大変珍しい橋です。
 これを記念するため その一部をここに保存します。


メトロレンガ

下水道の汚泥焼却灰を有益な資源にリサイクル
足元に敷かれたレンガは、下水から発生する汚泥が生まれ変わった美しいレンガです。
「棄てる」から「活かす」へ。
限りある地球上の資源を有効に再利用し、社会へもどす。
館ky法を大切にする下水道局の重要なテーマがこんな形で実を結びました。鎌倉児童公園では14000個が使われています。










地方銀行協会

『一般社団法人全国地方銀行協会(ぜんこくちほうぎんこうきょうかい、英: Regional Banks Association of Japan)は、地方銀行の健全な発展を通じて金融経済の伸長に寄与し、もって公共の利益を増進することを目的[1]とする一般社団・財団法人法上の一般社団法人である。略称「地銀協」(ちぎんきょう)。 』
全国地方銀行協会 - Wikipedia








◆東京都水道局千代田営業所

奥の建物は千代田区立スポーツセンター。








◆コーヒーハウスロフト

歴史がありそうだね!
今度中にい入ってみたい。









松屋 神田西口店

朝ごはん♪









続く。