2018/07/12 小石川散歩 03 見樹院/法蔵院/処静院跡/傳通院/福聚院(大黒天)/とうがらし地蔵

まだまだ南下。
お寺の多いエリアに入った。



◆見樹院

マンション一体型・・・・
ということかな?



◆法蔵院




google mapを見ると、夏目漱石旧宅跡とあった。
現地では何もわからなかったので帰ってからWEBで調べると、喜久井町にあった自宅がうるさいからこちらに身を寄せたとのことだった。



◆処静院跡




 浄土宗処静院は伝通院 塔頭(たっちゅう)の一つであったが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。今は伝通院門前に「不許葷酒入門内(くんしゅもんないにはいるをゆるさず)」の文字が刻まれた、処静院の石柱を残すのみである。
 文久3年(1863)2月4日、浪士隊 の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(合図藩主 松平容保)のもとで活動した新撰組 の前進である。隊結成に当たり、中心となった人物は清河八郎 で、幕臣の鵜殿長鋭 どのながとし(鳩翁 きゅうおう)が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締役の職に就いた。
 鉄舟を懇意であった処静院の住職琳瑞(りんずい)は結成の趣旨に賛同し結成の場所として本院を提供した。後に新撰組 幹部となる試衛館道場 の近藤勇土方歳三沖田総司 なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上がった。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃(たお)された。享年34歳であった。現在墓は伝通院 にある。また、住職琳瑞も慶応3年(1867)小石川三百坂で刺殺された・享年38歳であった。



処静院の石柱




◆傳通院






有名な方々が眠る・・・・。
於大の方徳川家康の実母)の法名、伝通院殿光岳蓉誉智光がこのお寺の名前の由来とのこと。






福聚院(大黒天)





像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれてて、見るべきものがある木造彫刻といえる。
特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財である。
大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。
江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。
しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。





◆とうがらし地蔵(福聚院(大黒天)内)

首に巻かれているのが「とうがらし」だった。




続く。

2018/07/12 小石川散歩 04 旧表町/冨坂警察署/いろは館跡/小石川大神宮/中央大学/富阪/旧小石川町

さらに南下する。
このエリアはかなり昔に散策したことがあるが、配布されている観光MAPくらいしか情報源がなく、こんなに細かくは巡らなかった。



◆旧表町




 むかし小石川村の内で、慶長7年(1602)伝通院前表町と称して町屋が開かれた。表町とは伝通院の表通りの意味である。同5年、境町(水道町のうち日影町)と伝通院の境内全部を併せた。
 伝通院(無量山伝通院寿経(じゅきょう)寺)は、徳川家康の生母お大(於大)の方を葬り、広大な堂宇(どうう)が建てられた。将軍家の菩提寺で、寺領は830石であった。
 千姫や3代将軍家光の正室孝子の墓など、徳川ゆかりの婦人たちの墓が多い。また、常時学僧1千余人が寄宿して修行した壇林(浄土宗)があった。




◆冨坂警察署




◆いろは館跡




大正のはじめ、歌人島木赤彦ここに下宿してアララギの発刊に当る




◆小石川大神宮









中央大学





◆富阪



 「とび坂は小石川水戸宰相光圀郷の御屋敷のうしろ,えさし町より春日殿町へ下る坂,元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫一本』にある。鳶が多くいたので,鳶坂,転じて富坂となった。
 また,春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで,東西に坂がまたがって飛んでいるため 飛坂ともいわれた。そして,伝通院の方を 西富坂,本郷の方を 東富坂 ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し“アララギ”の編集にあたっていた。

    「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
        島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876〜1926)




小石川町

 京都聖護院門跡道興准后(しょうごいんせきどうこうじゅごう)が、「催告雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。
 「ここ(上野忍岡(うえのしのぶがおか))を過ぎて小石川と言へるところにまかりて、我方(わがかた)を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん。
 また、「江戸砂子」(享保17年・1732)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴(らんしょう)なり」とある。
 むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治5年、小石川町とした。



濫觴(らんしょう)
揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。

難しい言葉だね・・・・・・・。





続く。

2018/07/12 小石川散歩 05 春日局像/幸田文ゆかりの「ハンカチの木」/童謡「ちいさい秋みつけた」とばぜの木/東京都戦没者霊苑/諸工伝習所跡記念碑、陸軍工科砲兵工科学校跡/小石川後楽園とその周辺/水道橋駅

ここも昔散策したことがあるが、こんなにいっぱい史跡があったんだね・・・。
春日局像と東京都戦没者霊苑の二つしか巡ってなかったなあ。



春日局



文京区と春日局

 文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。
 また春日局菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和六十四年(1989)一月より1年間NHK大河ドラマ春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し区民の皆様と共に区内の活性化、地域の振興を図ることを目的として主主の事業を推進しました。ここに本地業を記念して春日局像を建立することにいたしました。





幸田文ゆかりの「ハンカチの木」




 「ハンカチの木」は19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんでダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチノキ」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。
  一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同様の丸い花序で、白い苞片(ほうへん)に守られているように見える。4〜5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。
 作家の幸田文(1904〜1990)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の家の庭に仮植えされていたものである。平成14年(2002)年12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ磔川公園に移植された。
平成16年(2004)は幸田文生誕100年にあたる。


縁のある木
縁のあるなしは人ばかりではない。樹木にもそれがあり、時に思いもかけぬ縁が生じることがある。この樹はたまたま私の家の庭に根を下してから開花を迎えるまで、実に二十年近い年月を過した。「ハンカチの木というのだから、きっと白い花が咲くのだろう」と、木を贈られた母は初花を楽しみにしたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた。
 それから七年、まぶしいほど明るい五月の空の下で新緑が萌え、枝先に大小二枚の真白な苞が風に揺れていた。中心に小さな蕾の集合体を両手で大切に囲っているように見える。木の咲く花のかたちとしては、他に類がなく、自然はたった二枚の白く美しい不思議な姿の花をハンカチの木に与えたかと胸が熱くなる想いで見守った。母が見たならどんなに喜んだか。多分それは私の目を通して、伝わったであろうと信じている。
 母から私に引き継がれたこの木が、新しい場所で、更に多くの方々との御縁を結ぶよう心から願って止まない。




◆童謡「ちいさい秋みつけた」とばぜの木



童謡の名作を数多く残したサトウハチロー(1903〜1973)は、昭和12年(1937)秋に、上野・桜木町から向ヶ岡弥生町に転居した。家の庭には、はぜの木が植えられ、仕事部屋からよく見えた。童謡「ちいさい秋みつけた」は、真紅に染まったはぜの枝葉を眺め作詞された。昭和30年(1955)秋のことである。
ハチローの没後、旧宅は記念館に改装され、遺稿や愛用品が展示されたが、平成7年(1995)館は閉鎖され、平成8年(1996)記念館は北上市に新設された。
その後、残された “ はぜの木 ” は木の延命を図るため5本の枝を残し、切り株状にして平成13年(2001)10月、この地に移植された。樹齢約70年、毎年真紅の枝葉が “ ちいさい秋 ” を語り伝えてくれる。



ちいさい秋みつけた(三番)

サトウハチロー 作詞
中田喜直 作曲


誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋 みつけた



そういえば、井の頭公園で「ちいさい秋みつけた」の歌碑を見たことがあった。
2016/11/23
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161123/1480056402


こちらは作曲した中田喜直さんゆかりだね。




東京都戦没者霊苑

こちらもかなり前に来たことがある。
今回は入らなかったけど、また行こうと思う。




◆諸工伝習所跡記念碑、陸軍工科砲兵工科学校跡




 ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。明治五年七月十五日政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第2次世界大戦終結までその名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかかわったが73年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた本年は諸工伝習所創立100周年にあたるのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。




小石川後楽園とその周辺

このコースは、東京「歴史と文化の散歩道」池袋コースのサブコースとして設定したものです。
コース沿いに、小石川後楽園、五千円札で親しまれている「新渡戸稲造」旧居跡、「南総里見八犬伝」の作者「滝沢馬琴」の墓(深光寺)、”縛られ地蔵”で有名な「林泉寺」などがあります。
また、小石川後楽園庭園は、旧水戸藩上屋敷の庭園で、寛永のはじめ(1630年頃)初代徳川頼房(よりふさ)が作庭にかかり、2代光圀が継承して完成させました。朱舜水(しゅしゅんすい)の意見をとり入れた中国風の趣のある回遊式築山泉水庭園で、江戸大名庭園の代表的なものであります。
中国の「岳陽桜記(がくようろうき)」の「天下の憂に先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、「後楽園」と名づけられました。



朱舜水(しゅしゅんすい)
wikiで調べると、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。
墓所水戸藩主累代の墓地である瑞龍山(茨城県常陸太田市)とのことだったので、機会があったら見に行ってみようと思う。



水道橋駅

ゴール!
とにかく暑かった(w
夏は散歩に不向きだねぇ。
公園を見つけては水分補給しながら歩いた。

2018/07/12 小石川散歩 01 茗荷谷駅/林泉寺/団平坂/石川啄木終焉の地/旧久堅町/播磨坂/山櫻

24時間勤務アケで、茗荷谷から水道橋まで散歩。
6/26に散歩した場所のやや東側を歩く。



茗荷谷駅

スタートの茗荷谷駅
少し雨が降ったがすぐに止んだ。




林泉寺

しばられ地蔵があるとのことだったのだが、境内が工事中で中に入れなかった。
しばらくしてから行こうと思う。



◆団平坂(丹平坂(たんぺいざか)・袖引坂(そでひきざか))




 「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって4か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
   椽先(えんさき)にまくら出させて、
   ひさしぶりに、
   ゆふべの空にしたしめるかな   石川啄木(直筆ノート最後から2首目)



石川啄木終焉の地

石川啄木顕彰室」 という小さな資料館があった。




呼吸すれば、
胸の中にて鳴ってる音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!

眼閉づれど
心にうかぶ何もなし。
さびしくもまた眼をあけるかな




 石川啄木は明治一九年(1886)二月二〇日(または一八年一〇月二七日)、岩手県岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。
 盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』・『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。
 啄木は、明治四四年(一九一一)8月7日、本郷弓町の喜之床(現・文京区本郷2丁目38)の二階からこの地の借家(当時の小石川区久堅町74番46号)に移り、翌年病没するまで居住した。
 この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治四五年四月一三日午前九時三〇分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなった。法名は啄木居士。



◆旧久堅町



 もと、小石川村の内で、元和年間(1615〜24)以降町屋を開いた。
 明治2年、橋戸町、久保町、宮下町飛地門前町(宗慶寺、善仁寺)、松平播磨守屋敷跡や旗本屋敷跡などを合併した。
 町名は、永久の町の発展を願って久堅町とした。
 戦後作られた環状3号線の坂名は、ここに屋敷のあった松平播磨守(常陸府中・水戸家支藩)にちなんで、播磨坂と名づけられた。町の人の努力で育てられた桜並木は、花の名所となり毎年桜まつりが行われている。




播磨坂

もう何度も来てます。




◆山櫻

墨田区の「名刺と紙製品の博物館」に行ったときの企業さん。
こちらにもあったんだね!

2017/05/23
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170523/1495800089



続く。

2018/07/12 小石川散歩 02 極楽水/吹上坂/善仁寺/滋照院/辰巳屋惣兵衛の墓/三百坂

どんどん南下する。
坂が多いが、比較的なだらかな坂だった。



◆極楽水




 ここは、了誉聖冏 上人が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
 『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
 現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。










◆吹上坂

説明板が見当たらなかったが、WEBで調べるとあるみたいだ。
もう一回行ってみよう。




◆善仁寺





塚田正夫

将棋の名人だったとのこと。






◆滋照院






◆辰巳屋惣兵衛の墓(滋照院内)




 江戸中期の遊侠人で、本名は平井辰五郎(1733-1821)と言った。
 伝通院門前に居住して、茶漬け飯・田楽豆腐屋を開業した。しかし、店は家人に任せ、もっぱら、遊侠の生活にふけっていた。
 辰五郎は生来、踊りが好きで、若い頃から暇をみては、踊りに時を費やした。特に、踊りの名声を高めたのは、女装して面白おかしい所作をとりいれてからである。
 天明8年(1788)には、「仮面」をつけて踊る「狂言神楽」(里神楽と類似型)を創案し、江戸市民の人気をあつめた。
 山王権現社、神田明神社のほか、江戸市中の各神社の祭礼での活躍は言うにおよばず、大名邸での宴会の余興にも招かれるようになった。そのような時、自分は遊戯のために踊るのであり、利欲のためでない、と言って金銭を受けとらなかったという。
    「お祭と神楽の堂に辰巳屋の枯木娘や花咲かせ爺」蜀山人(太田南畝)





◆三百坂



 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。
 松平家では、新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。
 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後 衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。




続く。