2018/07/12 小石川散歩 04 旧表町/冨坂警察署/いろは館跡/小石川大神宮/中央大学/富阪/旧小石川町

さらに南下する。
このエリアはかなり昔に散策したことがあるが、配布されている観光MAPくらいしか情報源がなく、こんなに細かくは巡らなかった。



◆旧表町




 むかし小石川村の内で、慶長7年(1602)伝通院前表町と称して町屋が開かれた。表町とは伝通院の表通りの意味である。同5年、境町(水道町のうち日影町)と伝通院の境内全部を併せた。
 伝通院(無量山伝通院寿経(じゅきょう)寺)は、徳川家康の生母お大(於大)の方を葬り、広大な堂宇(どうう)が建てられた。将軍家の菩提寺で、寺領は830石であった。
 千姫や3代将軍家光の正室孝子の墓など、徳川ゆかりの婦人たちの墓が多い。また、常時学僧1千余人が寄宿して修行した壇林(浄土宗)があった。




◆冨坂警察署




◆いろは館跡




大正のはじめ、歌人島木赤彦ここに下宿してアララギの発刊に当る




◆小石川大神宮









中央大学





◆富阪



 「とび坂は小石川水戸宰相光圀郷の御屋敷のうしろ,えさし町より春日殿町へ下る坂,元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫一本』にある。鳶が多くいたので,鳶坂,転じて富坂となった。
 また,春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで,東西に坂がまたがって飛んでいるため 飛坂ともいわれた。そして,伝通院の方を 西富坂,本郷の方を 東富坂 ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し“アララギ”の編集にあたっていた。

    「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
        島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876〜1926)




小石川町

 京都聖護院門跡道興准后(しょうごいんせきどうこうじゅごう)が、「催告雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。
 「ここ(上野忍岡(うえのしのぶがおか))を過ぎて小石川と言へるところにまかりて、我方(わがかた)を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん。
 また、「江戸砂子」(享保17年・1732)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴(らんしょう)なり」とある。
 むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治5年、小石川町とした。



濫觴(らんしょう)
揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。

難しい言葉だね・・・・・・・。





続く。