2018/09/07 滝野川散歩 07 大谷大学開学の碑/「皇后宮御歌」の碑/宮仲公園/矢端川跡/出世稲荷神社/空蝉橋/大塚駅

この日記のエリアでは大塚駅に向かって南下する。
駅に向かうにつれて拓けてくる。



大谷大学開学の碑(宮仲公園内)






明治34年10月13日、大谷大学の前身である真宗大学が清沢満之を初代学長として、当時 巣鴨宮仲と言われていたこの地に開校された。大学はその後京都に移るが、大谷大学の近代の黎明はまさにこの地に告げられたのである。





◆「皇后宮御歌」の碑(宮仲公園内)






奈俱散免無 古登能葉毛駕難
なぐさめむ ことのはもがな

戦飛農 尓波遠之能微轉
たたかひの には(わ)をしのびて

数具寿 也閑羅遠
すぐす やからを

(訳)
なぐさめる 言葉もありません
戦場を偲んで 過ごしている人々を

 昭和18年5月19日に豊島区西巣鴨二丁目2601番地、豊島授産場付近で隣組の防空訓練が行なわれ、皇后が視察して歌を詠んだ。
 これを記念して当時の町会長が宮仲公園に皇后の歌碑を建てたという。   





◆宮仲公園



昭和13年11月東京市豊島区西巣鴨2丁目1570番地居住の澁澤正雄氏はこの地200余坪を東京市に寄付せらる。
依て市は此の地に児童遊園地として宮仲公園を開設す。
茲に由来を記し後世に伝ふ



澁澤正雄は渋沢栄一の三男とのことだった。




◆矢端川(やばたがわ)跡




 この道路はむかし、谷端川という川でした。谷端川は、粟島(あわしま)神社(要町二−十四)境内の湧泉(弁天池)を水源とし、周辺の湧き水を集めながら、長崎村、池袋村、中丸村(板橋区)、滝野川村(北区)、巣鴨村を経て、小石川村(文京区)に至り神田川に注ぐ、区内最大の流域をもつ川でした(全長約11km)。
川の名称は、豊島・北・板橋区内では谷端川、文京区内では小石川(礫川)と呼ばれ、元禄九(1696)年に千川上水が完成した後、上水の水を川に引き入れたため千川分水とも呼ばれました。その後、近郊農業の発展とともに、谷端川は流域の人々の暮らしと密接に関わってきました。
かつて弁天池では農作祈願の雨乞いが行われ、流域の各所に大根などの野菜の洗い場や水車があり、夏は蛍が飛び交い、子供たちは水泳や蜆(しじみ)・鮒(ふな)・鯉・鰻・ドジョウなどを採って楽しんだといいます。またこの付近には、木綿の晒(さらし)工場や染物屋があり、きれいな水が流れていた様子がうかがえます(巣鴨のむかしを語り合う会編『聞き書き帖 谷端川』)。
大正期に入ると都市化が進み、昭和初年から谷端川の改修と暗渠(あんきょ)工事が始まりました。JR板橋駅より下流のこの地は、昭和十年前後に暗渠となり、上流域は昭和二十四年から改修・暗渠工事が行われ、昭和三十九年に谷端川は全域が暗渠となりました。



東京に暗渠っていくつあるんだろう。。。。。






出世稲荷神社






神社のうしろにサンシャインが見える。





◆空蝉橋(うつせみばし)




JR山手線大塚駅が見え、さらにその奥にスカイツリーが見える。




大塚駅

ゴールのJR山手線大塚駅
途中で少し雨が降ったりしたけど、逆に涼しくてよかった。
一つ一つの史跡は都心に比べると離れているので、歩いた距離は多い(気がする)

2018/09/07 滝野川散歩 06 旧地名石碑/宮澤賢治と花巻市の鳥「ふくろう」/上池袋さくら公園/子安稲荷/上池袋一丁目児童遊園/家庭学校跡

この日記のエリアも東にすすむ。
史跡がまとまっていないので、割と広い範囲をジグザグに進む。
遠くにサンシャインビルがチラチラ見えた。



◆旧地名石碑(上池袋さくら公園内)

<堀之内>
 昭和7年ー44年までの町名で、17世紀中ごろ(江戸時代)、王子の梶原堀之内より分郷したのでその名が付いたと言われています。
 この碑は「堀之内」の名を後世に言い伝えるために設置しました。




宮澤賢治花巻市の鳥「ふくろう」(上池袋さくら公園内)




 宮澤賢治は1896年に、現在の岩手県花巻市に生まれました。「雨ニモマケズ」や、童話「銀河鉄道の夜」などで知られる賢治は、ふるさと岩手を理想郷「イーハトーブ」と呼び、37歳で亡くなるまでに、たくさんの詩や童話を書いています。
 賢治作品に何度も登場する「ふくろう」は、花巻市のシンボルの鳥であり、童話「二十六夜」は代表作です。舞台は花巻市内を流れる北上川のほとりで、集うふくろうたちを前に、ふくろうの僧が「疾翔大力」 について説法します。疾翔大力とは、賢治創作の菩薩の別号で、物語の最後では二十六日の月の中に三尊の仏として、その姿を現します。
 農業指導にその身を捧げた賢治は、「農民芸術概論綱要」の中で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と記しています。あらゆる生命の「ほんとうの幸福」を求め続けた賢治の祈りを、花巻から飛び立つ「ふくろう」に託します。




◆上池袋さくら公園

広い公園で図書館もある。




◆子安稲荷神社


境内社









◆上池袋一丁目児童遊園




◆家庭学校跡

上池袋東公園内に説明板があった。




 家庭学校は、巣鴨村大字巣鴨(現上池袋一丁目 三十七番一帯)にあった感化教育施設である。
 設立者の留岡幸助(とめおかこうすけ)は、元治元(1864)年に備中国(現岡山県)で生まれた。幼少期に経験した身分制社会の不条理から、すべての人間が平等に生きられる社会を希求するようになり、キリスト教にその理想を見出した。同志社英学校神学課卒業後、明治二十四(1891)年から北海道空知集治監の教師をつとめるなかで、「犯罪を犯すに至った原因は、少年期の環境が悪いためである」という考えをもつ。同三十二年一月、厳本善治の斡旋によって巣鴨村の3600坪の土地を購入し、同年十一月二十三日に家庭学校を開校した。
 家庭学校では、当時まだ自然豊かであった巣鴨村で、農業や牧畜の作業とキリスト教を通じて、不良少年の感化教育が行われた。生徒は校内の宿舎で父親役・母親役の教師と寝食を共にし、家族のような共同生活を送った。
 明治三十七年、日本初の慈善事業従事者養成機関として、慈善事業師範部を校内に設けた。明治四十二年、東京府代用感化院に指定。大正三(1914)年、北海道紋別郡遠軽に社名別分校(現北海道家庭学校)、同十二年に神奈川県に茅ケ崎分校を開設した。
 昭和六(1931)年、留岡が倒れたことにより、家庭学校は東京府代用感化院の指定を辞退し、茅ヶ崎分校を閉鎖した。同九年二月五日、留岡が七十歳で死去する。巣鴨の校地は、日本初のガン専門の研究機関である癌研究所(昭和九年開設。平成十七年有明へ移転)及び付属治療所に譲渡した。



続く。

2018/09/07 滝野川散歩 01 王子駅/飛鳥山公園歩道橋/飛鳥山公園/小祠/音無橋/醸造試験所跡地公園/旧醸造試験所第一工場

24時間勤務アケで、王子から板橋、北池袋経由で大塚まで歩く。
この日記のエリアでは石神井川(音無川)沿いに西に歩く。
王子駅周辺は何度も来たことがあるエリアだ。




王子駅

京浜東北線東京メトロ南北線都電荒川線の駅。




飛鳥山公園歩道橋






下に見える線路は都電荒川線




飛鳥山公園

花見とかで何度も来ている場所。




公園脇を走る都電。




◆小祠

飛鳥山公園歩道橋近くの郵便局脇にあった。




◆音無橋

御茶ノ水の聖橋に似ているね。











醸造試験所跡地公園




◆旧醸造試験所第一工場(醸造試験所跡地公園内)

 醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させること等を目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治三十七年(1904)五月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管とすることになりました。
 醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大砲製造所が置かれた敷地の一部で、水利がよく、王子停車場(現王子駅)も近いことなどから「まことに得難き好適地」として選定されました。
 第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米・製麴(せいきく)・仕込・発酵・貯蔵等の作業が行われていました。設計及び監督は、大蔵省技師の妻木頼黄(つまきよりなか)が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造で、外観を化粧煉瓦小口積とし、外壁上部は煉瓦を櫛型に並べたロンバルド帯風の意匠になっています。躯体の煉瓦壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備える等、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を応用した設計がなされています。製麴室の白色施釉煉瓦積の壁や、鉄骨梁に半円形状に煉瓦を積んだ耐火床など、屋内にも特徴的な煉瓦造の部分をみることができます。
 昭和二十年(1945)四月に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。



続く。

2018/09/07 滝野川散歩 02 旧醸造試験所第一工場/正受院/石碑/馬場商店会MAP/滝野川病院/四本木児童遊園/四本木稲荷

まだ石神井川沿いに西へ進む。
閑静な住宅街。



◆旧醸造試験所第一工場

前回の日記の説明板に書いてあるレンガ造りの建物。
以前は酒類総合研究所があり、一般公開の時に見させてもらったが、広島に引っ越してしまった・・・・。
建物は11月の文化財ウィークの時に公開している模様。




◆正受院










不動の滝跡

不動の滝は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を下った石神井川の岸にありました。『江戸名所図会」は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。


 正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、浴々として消壁に遡る、北境、常に蒼樹精講として白日をさ、え、青苔露なめらかにして人跡稀なり、


 室町時代大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置したと伝えられます。不動の滝は、滝の傍に不動尊が祀られていたことから付けられた名称ですが、今も、その跡が僅かに偲ばれます。



石造近藤守重坐像



 坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府(だいにっぽんえとろふ)」という標柱を建てた近藤守重(こんどうもりしげ)の肖像です。
 守重は、明和八(1771)年、江戸町奉行所与力の次男として生れ、家督を継いで、通称を重蔵(じゅうぞう)、号を正斎(せいさい)と称しました。
 寛政十(1798)年三月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛 の協力で、石像のように、甲冑(かっちゅう)に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五(1822)年から九年までの四年間を、正受院の東隣に、滝野川文庫という書斎を設けて住みました。
 石像近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁(たにぶんちょう)に下絵を依頼して製作したと伝えられます。



鐘楼門








◆石碑

住宅街の一角に不自然にたたずむ石碑が・・・・。
正受院に近いところにあるので、関係があるかな?
どなたかご存知の方教えてください。









◆馬場(ばんば)商店会MAP




松本零士さん!?
調べると、松本さん本人によるものとのこと。





滝野川病院




◆四本木児童遊園




◆四本木稲荷神社





境内社





境内社



鳥居1


鳥居2





続く。

2018/09/07 滝野川散歩 03 滝野川八幡神社/石大神宮・飯井宮/滝野川伏見稲荷/きつね塚通り/滝野川消防署三軒家出張所/狐塚坂

石神井川から離れて板橋駅のある南西方向に進む。



滝野川八幡神社




 八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気命応神天皇)で、創建は建仁二年(1202)といわれていますが、詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期の住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地しています。神仏分離以前は石神井川畔にある金剛寺別当寺でした。明治初年には大塚の天祖神社神職が祠掌を兼務していたようです。
 現在の本殿は明治十七年(1884)に改築されており、拝殿は大正十一年(1922)に修築されています。境内には、富士・榛名・稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名社については、村民が農耕時の降雨を願い上州の榛名山より勧請したもののようです。
 神社の社務所終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒家の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されていました。組合ではここで野菜の種子相場(生産者からの引取価格)の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。




稲荷社







鳥居

工事車両があって、正面から撮れなかった・・・・。




◆石大神宮・飯井宮








滝野川伏見稲荷神社




きつね塚通り





滝野川消防署三軒家出張所





◆狐塚坂

ストリートビューを見てたら、消防署脇の路が「坂」になっているようだ。
碑が建っていたので、スクショ。


 滝野川第六小学校の南から南西へ登る坂です。坂名は、坂を登った東にある滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚という塚があったことによります。ここから南西向い側の重吉稲荷境内にあった寛政10年(1798)造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん・たきふとう おふし・六阿弥陀・せんちゅ みち」という道標銘が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣での人びとが利用したことをしのばせます。



続く。

2018/09/07 滝野川散歩 04 重吉稲荷/平尾一里塚跡/近藤勇墓所/板橋駅/北八端公園/亜麽提観音

板橋駅のある南西方向に進む。
板橋駅を過ぎてからは南下。



◆重吉稲荷神社






◆平尾一里塚跡

google mapに載っていたので来てみた。



それらしいのはこのくらい・・・・。
合っているかどうかは不明。
ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。




近藤勇墓所




 慶応四年(1868)四月二十五日、新撰組強調であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で館軍により斬首主計されました。その後首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治九年(1876)五月に隊士のひとりであり近藤にし私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て創立されました。高さ6.6メートルほどある独特の細長い角柱状せ、四面のの全てにわたり銘文が見られます。正面には、「近藤勇 昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宣が昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改村義衛衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
 戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友と弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔はに近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。








ここ、板橋区だとばっかり思っていたけど、北区なんだね・・・・。




板橋駅

すぐ東側が北区。
すぐ南側が豊島区。
3区の区境にあるんだね!




◆北八端公園




◆亜麽提(アマタ)観音




コモディイイダの一角にあった。




続く。

2018/09/07 滝野川散歩 05 ゆートピア/ひばりがや広場/第一雲雀ヶ谷踏切/北池袋駅/北池出世稲荷

埼京線沿いに南下する。
北池袋駅からは大塚駅のある東へ進む。



◆ゆートピア




◆ひばりがや広場




◆第一雲雀ヶ谷踏切

北池袋駅のすぐ脇にあった踏切。






ここから東武東上線埼京線が別れる。




北池袋駅




JR側にはホームがないんだね。
停まっているのは東武東上線の車両。






◆北池出世稲荷神社




続く。