24時間勤務アケで、一人で神楽坂散歩です。
飯田橋→神楽坂→早稲田→神楽坂→飯田橋の順番で歩いた。
「2017/05/16」「2017/07/27」に散歩して日記を書いている。
「2017/12/10」は、飯田橋駅前のイルミネーションを見て歩いた。
なので、できるだけかぶらないように歩いた。
◆延命地蔵
ここは「2017/12/10」に通ったことがあるが、わからなかった。
暗かったので見えなかったんだと思う。
ここは「2017/07/27」の日記に書いた場所だった。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170727/1501465231
◆軽子坂
この坂名は新撰東京名所図会などにもみられる。
軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。
<泉鏡花旧居跡>
このあたりは、明治初めから昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家・泉鏡花の旧居跡である。
明治32年、硯友社の新年会で神楽坂芸妓の桃太郎(本名すず)と親しくなり
友人から借金をして36年3月、ここの借家に彼女と同棲するようになった。
しかし師である尾崎紅葉に厳しく叱責を受け、すずは一時、鏡花のもとを去る。
この体験は『婦系図』に大きく生かされ、このすずがお蔦のモデルである。
同年10月紅葉が没すると、すずを正式に妻として迎え、明治39年7月までこの地に住んだ。
<北原白秋旧家跡>
泉鏡花の旧居地であるこの場所は、北原白秋の旧居地でもある。
白秋は鏡花より遅れて明治41年10月から翌年10月に本郷動坂に転居するまでの約1年間をここで過ごしたが、その間の活動も素晴らしいものがあった。
当地に在学中の同42年5月に短歌『もののあはれ』63首を発表しており、このころから歌作にも力をそそぐようになった。
なお、このあたりは物理学校(現・東京理科大)の裏手にあたることから「物理学校裏」(大正2年7月刊「東京景物詩及其他」)という詩も残している。
芸者衆の手配や、けいこを行う「見番」が沿道にあることから名づけられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる。
◆伏見火防稲荷神社
見番横丁の入り口にある神社。
着物を着たお姐さんが一生懸命拝んでいた。
とくに案内板などは設置されてなかった。
google mapだと写真のところ辺り。
細い路地が入り組んでいた。
続く。