2018/03/18 四谷散歩 03 新坂/津の守弁財天/荒木公園/ナツメの木/美濃国高須藩主松平摂津守家上屋敷跡

この日記の場所も以前訪れている場所である。
津の守弁財天は早咲きの桜が満開で、2度目に来たかいがあった♪



◆新坂




 全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代広汎の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には、甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが延び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達せり」という光景であった(「新撰東京名所図会」)。




◆津の守弁財天

桜がものすごく綺麗だった。
こちらは一度お参りに来ている。
2016/11/12
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161112/1479018525





高遠小彼岸桜

 信州高遠城址公園に樹林をなす高遠固有の桜で、小ぶりで赤みを帯びた可憐な花が一斉に咲き誇る姿はまさに「天下第一の桜」と称されています。






◆荒木公園

この公園内に「ナツメの木」と「美濃国高須藩主松平摂津守家上屋敷跡」の説明板があった。



◆ナツメの木(荒木公園内)

「この木は、1905年(明治三十八年)一月五日に、日露戦争で旅順攻略の任にあった乃木希典日本陸軍第三司令官と露西亜ステッセル軍司令官が旅順開城規約締結の会見を行った水師営(現在の大連市水師営鎮小南村)の民家にあったナツメの木の二世として、地元に古くから語り継がれている木である。
 このナツメの木は、かつて市ヶ谷にあった大日本帝国軍の士官が、会見が行われた水師営の民家を訪れた際に、記念の証としてナツメの苗木を日本に持ち帰り、士官たちがよく通った荒木町の料亭の庭先に植えられた。その後、成長したこのナツメの木は、関東大震災の難にも逃れ、東京大空襲では痛手を被ったが、奇跡的に芽を噴出し蘇ったと伝えられている。平成十二年には、マンション建設のため、一時は、抜粋の危機にも見舞われたが、地元の熱意により、この木は、無事に荒木公園内に移植され、老木にも係わらず、毎年可憐な実を実らせ、来園者に親しまれている。
 水師営のナツメの木は、『昨日の敵は、今日の友』で有名な小学唱歌水師営の会見』の歌詞の一節に『庭に一本棗(ひともとなつめ)の木…』と謳われている。作詞をした歌人であり国文学者であった佐佐木信綱は、作詞にあたって、正確を期すため、乃木大将から当時の会見模様を面接伺った折に、会見場所の庭の木について尋ねたところ、『そう言えばナツメの木が一本あったのう』と答えられたと、後年筆者で記している。
 日露戦争をはじめ、荒木町の歴史遺産として、この名木の由来を、後世に語り次ぐ。




美濃国高須藩主松平摂津守家上屋敷跡(荒木公園内)

江戸時代、荒木町一帯には、美濃国高須藩主(現在の岐阜県海津市付近を領地とした藩)松平摂津守(近くの津の守坂はこれに因む)の上屋敷がありました。
屋敷内には滝を伴った大池があり、回遊式庭園となっていましたが、この池は徳川家康が鷹狩りの帰りに策を洗ったという伝承があり『策の池』と呼ばれます。池は、明治時代には一般に開放され、景勝地、花街として賑わいました。『策の池』は現在もその一部が残っており、『カッパ池』と『津の守弁財天』として親しまれています。なお、荒木町の『車力門通り』は、上屋敷甲州街道口にあった『車力門』に因むものです。
幕末期、藩主松平義建の子としてこの屋敷に生まれた兄弟のうち、二男義勝は尾張徳川家、五男茂徳(後の茂栄)は御三卿一橋家、七男容保は会津松平家、八男定敬は桑名松平家を継承しました。兄弟は幕府方と新政府方に分かれ、立場を異にしましたが、『高須四兄弟』と呼ばれ、激動の時代を生き抜きました。





続く。