2018/08/21 江戸川橋散歩 07 日無坂/目白台一丁目遊び場/歩道橋/成瀬記念講堂/旧雑司ヶ谷町/旧雑司ヶ谷町

目白通り沿いに護国寺駅を目指す。
まっすぐ行けばすぐ着いちゃうのに、あちこち巡って時間がかかってしまう。



◆日無坂/富士見坂

前の日記に書いた「稲荷坂」と平行に東側にある坂。
左に降りていくのが日無坂で、説明板などは見つからなかった。
両側の樹木の枝葉で日光も差さなかったので、日無坂と呼ばれていたとのこと。


右側に降りていく坂が「富士見坂」で、名前の由来は書かなくてもわかると思う(w



富士見坂は坂名板があったが由来などは書いてなかった。




富士見坂下からの眺め。
上がるのも下がるのも嫌だね(汗
雪が降ったら大変だ・・・・。






目白台一丁目遊び場




◆歩道橋

やはり名前の書いてあるプレートを見損ねた・・・・。










左側の建物が日本女子大学





日本女子大学成瀬記念講堂




 日本女子大学の象徴的建物で、創立者成瀬仁蔵の名を冠する。正門右手にある。
 明治39年(1906)、工学士・田辺淳吉の設計、清水組(現在の清水建設株式会社)の施工で竣工した。明治時代のわが国の斬新な洋風講堂建築である。
 その後、大正12年(1923)の関東大震災により外壁の煉瓦壁破損のため、今日みられる木造外壁に改修された。現在も残る基礎部分の煉瓦構造、ラテン十字型の平面、さらに二層の屋上小塔などに、創建当初の姿をみることができる。講堂の内部は、中央に演壇、慮側にウイングと呼ばれる翼廊、2階桟敷などを設け、ステンドグラスを用いたゴシック風の大きな窓を配している。
 総体的に、西洋教会堂の基本形式をふまえながら、西洋中世貴族の館の大ホール様式を加味した設計で、今に残る明治時代の学校建築として貴重である。




◆旧雑司ヶ谷




 延享3年(1746)、町名がつけられた。町名の由来にはいろいろある。
 昔、小日向金剛地(法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司(ぞうし)料であった。また建武の頃(1334〜36)、南朝の雑士(ぞうし)(雑事をつかさどる)柳下若狭などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。(新篇武蔵風土記





◆旧雑司ヶ谷



 享保3年(1746)町方支配となり、雑司ヶ谷の町名がつけられた。町名の由来については、いろいろな説がある。
 昔、小日向の金剛寺(または法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また。建武のころ(1334〜36)南朝の雑士(ぞうし)(雑事をつかさどる)柳下若狭、長嶋内匠(たくみ)などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。
 その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、8代将軍吉宗が鷹狩りのとき雑司ヶ谷村と書くべしとの命があり、今の文字を用いたという。




続く。