2018/08/28 鬼子母神散歩 02 豊島区役所屋上庭園/旧豊島区立日出小学校の碑/みみずく資料館/東通り/威光稲荷堂/法明寺/真乗寺

区役所からは鬼子母神のある南へ向かって散策する。
この日記のエリアは細い路地が多く、道に迷う・・・・。




◆豊島区役所屋上庭園

期待していたより狭かった。
そして10階だったので、そんなに眺めも良くなかった・・・。







斜めになっている場所までが区役所で、上階はマンション。
マンション部分の屋上から眺めたら景色がいいんだろうなあ・・・・。





◆旧豊島区立日出小学校の碑(豊島区役所敷地内)




 新庁舎の建つこの地(豊島区南池袋二丁目四十五番)は、武蔵野台地の一角にある。この地に開校した豊島区立日出小学校は、大正十二年に開設した高田町立第四尋常小学校(高田町大字雑司ヶ谷字水原六百三十四番地)を前身とする。
 第二次世界大戦がはじまると、高田第四国民学校と改称し、多くの児童は長野県平穂村・渋温泉などへ学童疎開した。昭和二十年四月十三日の大空襲で校舎を焼失する等、命がけの苦難に満ちた時代を通り抜けた。
 昭和二十五年、同校跡地に、豊島区立日出小学校が開校した。校名は「雑司ヶ谷旭出(ひので)」という当地名に由来する。校歌には「豊島が丘の朝風に/もえる日の出の意気見せる」と、児童の学業を鼓舞し、平成十三年三月三十一日の開校までに、3680名の卒業生を輩出した。
 ここに、日出小学校の歴史を後世に残すため、この碑を建立した。
 折しも、新潮社竣工前の平成二十六年十二月、庁舎屋上「豊島の森」に連なる雑司ヶ谷が、日本ユネスコ協会連盟の未来遺産に登録された。私たち区民は、雑司ヶ谷の地域がはぐくんできた歴史や文化を、未来に語り継ぎ、受け継いでいくことをここに誓う。




◆みみずく資料館

区立南池袋小学校内にあり、土日しか開館していない。
今回は入れなかったので、また今度来てみようと思う。




東通




◆威光稲荷堂





境内社




境内社



境内社



塚?

塚だと思うんだけど、情報がなくてわかりらなかった。




鳥居はたくさんあった。







◆法明寺



梵鐘




墓所




法明寺の墓所
小幡景憲(おばたかげのり)の墓>
 開国武田氏の家臣の子として生れれる。武田氏滅亡後は徳川家に仕え、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦い、同十九年の大阪冬の陣で徳川家の勝利に貢献したといわれる。甲州流軍学創始者としても知られ、軍学書『甲陽軍鑑』の成立に係わった。


<豊島氏の墓>
 豊島氏は、平安末期から鎌倉、室町時代にかけて、武蔵国のほとんどを勢力下にもっていた在地領主であるが、文明十(1478)年太田道灌に攻め落とされた。その後裔を称し、江戸幕府の旗本になった一族の墓である。八丈島代官をつとめた豊島忠次(寛永二十(1643)年没)をはじめ、豊島氏系図を作成した泰盈(やすみつ)(享保十二(1727)年没)の系統を中心とする。


<四代目橘屋円喬(たちばなやえんきょう)の墓>
 慶応元(1865)年十一月九日生まれ、七歳で三遊亭圓朝に入門、明治十一(1878)年二つ目に昇進し、二代目三遊亭園好を名乗る。上方での修行ののち、同十八年に東京に戻り、四代目橘屋円喬を襲名し真打に昇進。同三十八年に旗揚げした「落語研究会」の発起人をつとめた。話術に優れ、名人と称される。真夏の寄席で「鰍沢(かじかさわ)」をかけたところ、真冬の寒さを描写するうちに寄席の団扇や扇子を扇ぐ手が止んだという逸話が残る。大正元(1912)年十一月二十二日没。


<老女華嶋(はなしま)の墓・楠木正成息女の墓>
 墓地入口は近くの墓台と門扉がある墓は、十二代将軍徳川家慶に仕えた江戸城多くの老女華嶋のものである。華嶋の墓のそばには、楠木正成の娘の墓と伝えられる姫塚がある。法明寺縁起によると、楠木正成の息女とその夫の立願で高祖の像を彩色したと伝えられている。現在の墓石は、天保九(1838)年二月二建立されたものである。





山門






◆真乗寺



変わった建物の寺院だった。




続く。