2020/04/23 山王散歩 01 大森駅/八景天祖神社/八景坂/八景児童遊園/庚申塚/山王三番街/闇坂

24時間勤務アケでJR大森駅から都営浅草線中延駅まで歩く。
一部は「2016/05/14」の散歩とかぶる。


この日記ではJR大森駅西側エリアを散歩。


大森駅

スタートのJR大森駅





◆八景天祖神社神明社



稲荷神社



稲荷神社



楽殿



鳥居




◆八景坂





 今でこそゆるやかな坂道であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む葉研の溝のようだったところから、別名葉研坂と呼ばれた。
 この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨(かさじまやう)、鮫州晴嵐(さめずせいらん)、大森暮雪(おおもりぼせつ)、羽田帰帆(はなだきはん)、六郷夕照(ろくごうゆうしょう)、大井落雁(おおいらくがん)、袖浦秋月(そでうらしゅうげつ)、池上晚鐘(いけがみばんしょう)」という八景が選ばれ、八景坂というようになったといわれる。
 かつて坂上には源義家が鎧をかけたと伝えられる松があり、広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。




今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか「馬込
文士村」と呼ばれるようになりました。
文士や芸術家たちが住み始めた頃、大森駅前の高台は都市近郊の別荘地として知られていました。一方の馬込は雑木林や大根畑が広がる一帯でした。
馬込の大根畑の真ん中に若い尾崎士郎宇野千代が移ってきたのは大正十二年(1923)のこと。
士郎は文学仲間を次々に誘い、社交的な二人は文士たちの中心的な存在となりました。
大正十二年といえば関東大震災の年。東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化され、景観が大きく変わってきた時代でした。



馬込文士村の住人



大正八年の大森駅風景



望翠桜ホテル

「大森丘の会」は芸術家を中心とした集まり。
山王周辺の芸術家や分子の社交ばであった。




二人が夫婦であった頃、彼らの入柄を慕う仲間で家の中はいつも賑わい、文士の話題が飛び交うので「馬込放送局」と呼ばれたいた





関東大震災の騒ぎが一段落してくると、世間では新しい風俗が見られるようになりました。
ダンスホールができ、洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールが現われ、大正十四年には麻雀が大流行、麻雀カフェーができました。
作家の広津和郎も麻雀カフェーに通った一人で、馬込の自宅にも麻雀を持ち込み文土たちに伝授しました。








文士村の女性たちは相次いで断髪、モダンガールは馬込村の人々を驚かせました。





昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。
まだ若かった馬込の文士たちにとっても将来に不安の多い時代であったといえます。
仲間同士集まって気を紛らわそうというのか、麻雀に続いて馬込の面々が凝り始めたのはダンスでした。
衣巻家のアトリエで開かれるダンスパーティーに通ってきたのは、萩原朔太郎夫婦や室生犀星宇野千代、時には川端康成夫人の姿もありました。



朔太郎・犀星の周辺




馬込文士村時代、それは女性活躍の時代でもあった。





昭和六年、文士の間で相撲の話が持ち上がり「大森相撲協会」が発足しました。
文士(力士)には四股名をつけ番付表を作り、土俵は池上本門寺の裏手にあった空屋敷の庭にこしらえ、相撲大会を開きます。
ダンス流行の頃からやや退廃的なムードが漂っていた文士村は、住人の入れ替わりがあってようやく落ち着きを取り戻しつつありました。






◆八景児童遊園

八景坂途中にある。




◆庚申塚

こちらも八景坂途中にある。



「庚申塚」について
 庚申信仰は、中国の道教の「三尺説」を基にしています。遣隋使により日本に伝わり、仏教の密教神道系の修験道に取入れました。石像は青面金剛猿田彦の2通りあります。そして台座には三猿が見られます。
お祭りの方法は、60日に廻って来る「庚申の日」の夕方に村人が集まり、食事をしながら一晩中語り明し朝日が昇ると開散します。
江戶市中には大変多くの庚申塚が作られました。
この塚は地主の皆川氏が建立しました。
現在、当社では祭事は行っておりません。




◆山王三番街









◆闇(くらやみ)坂



 むかし、坂側に八景園という遊園地があり、その反対側に加納邸があって、この坂道は無く曲り、八景園の樹木がうっそうとおおいかかり、昼間でも暗かったために。この名がついたといわれている。





続く。