2021/05/26 雑司が谷散歩 06 雑司ヶ谷霊園

今回は西側の半分だけ巡った。
有名な方がかなり眠っておられる。




今回は西側半分。




◆東儀鉄笛の墓

『東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日(1869年7月24日) - 大正14年(1925年)2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。』
東儀鉄笛 - Wikipedia








◆川本幸民の墓

『川本 幸民(かわもと こうみん、1810年(文化7年) - 1871年7月18日(明治4年6月1日) )は、幕末・明治維新期の医師および蘭学者。名は裕(ゆたか)、号は裕軒(ゆうけん)。父は三田藩侍医の川本周安。その業績から、日本化学の祖とも言われる。
幸民は化学新書をはじめとする科学技術分野の多数の書物を執筆した。専門性を基礎として、白砂糖、マッチ、銀板写真の試作をし、日本における技術の発展に貢献した。 幸民は日本で初めてビールを醸造したと推定されている。また当時用いられていた「舎密」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いたことでも知られている。 』
川本幸民 - Wikipedia








◆浜田玄達の墓

『浜田 玄達(はまだ げんたつ、嘉永7年11月26日(1855年1月14日) - 1915年(大正4年)2月16日)は、日本の産婦人科医。 』
浜田玄達 - Wikipedia








中村是公の墓

『中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日(慶応3年11月25日) - 1927年(昭和2年)3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長貴族院議員などを歴任した。
作家・夏目漱石の親友としても知られ[2]、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 』
中村是公 - Wikipedia








◆ルドルフ・レーマンの墓

『ヘニング・ルドルフ・フェルディナント・レーマン(Henning Rudolph Ferdinand Lehmann、1842年10月15日 - 1914年2月4日)は、ドイツの造船技術者、機械工学技師。オルデンブルク大公国・オルデンブルク出身。兄に武器商人のカール・レーマン。独逸学協会名誉会員。 』
『1914年(大正3年)東京にて71歳で死去。墓地は雑司ヶ谷霊園にあり、2004年からは遺族の同意のもと京都薬科大学が管理している。 』
ルドルフ・レーマン (機械工学技師) - Wikipedia









小栗忠順(上野介)の墓

『小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣勘定奉行江戸町奉行外国奉行
通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介と改名した。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。 』
小栗忠順 - Wikipedia








◆御鷹部屋と松



 このあたりには、江戸時代中期の享保四年(1719年)以降、幕府の御鷹部屋がありました。御鷹部屋には鷹匠頭をはじめ目付 同心など常時七、八十名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練等を行っていました。
 また、鷹狩りの際には将軍が立ち寄って休息したり食事をとったりしたこともあったようです。
 御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。








東條英機の墓

『東條 英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日 - 1948年12月23日[1])は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。
現在の百科事典や文科省検定教科書等では新字体で東条 英機と表記されることが多い。
軍人として陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣参謀総長、政治家として内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任した。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑された。 』
東條英機 - Wikipedia








◆大下藤次郎の墓

『大下 藤次郎(おおした とうじろう、明治3年7月9日(1870年8月5日) - 明治44年(1911年)10月10日)は明治時代の日本の水彩画家。』
大下藤次郎 - Wikipedia








◆大塚楠緒子の墓

『大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年8月9日 - 1910年11月9日)は明治末期に活躍した歌人、作家。夫は美学者の大塚保治(入婿)。本名:大塚久寿雄。別名:久寿雄子・楠緒・楠緒子。才色兼備で夏目漱石が恋した人として知られる。 』
大塚楠緒子 - Wikipedia








◆金子馬治(筑水)の墓

『金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日(1870年2月10日) - 昭和12年(1937年)6月1日)は、日本の哲学者、評論家。本名は馬治(うまじ)。』
金子筑水 - Wikipedia








岩瀬忠震の墓

『岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された[1]。維新後に正五位を贈られた。島崎藤村『夜明け前』にも登場する。 』
岩瀬忠震 - Wikipedia








永井荷風の墓

『永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壮吉(ながい そうきち、旧字体:壯吉)。号に金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭(だんちょうてい)ほか。』
永井荷風 - Wikipedia








小泉八雲の墓

『小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・ 小説家・日本研究家・日本民俗学者。 』
小泉八雲 - Wikipedia








羽仁もと子/羽仁五郎の墓



『羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園創立者。また家計簿の考案者としても知られている。 』
羽仁もと子 - Wikipedia

『羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員日本学術会議議員。 』
羽仁五郎 - Wikipedia








安部磯雄の墓

『安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の社会主義者、政治家。
キリスト教人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。 』
ja.wikipedia.org








大川橋蔵の墓

『二代目 大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう、1929年(昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は東京都出身の歌舞伎役者、のち時代劇の俳優。本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。 』
大川橋蔵 (2代目) - Wikipedia








泉鏡花泉斜汀の墓

『泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。
金沢市下新町生まれ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 』
『弟も作家で、鏡花の舎弟だというので泉斜汀を名乗ったが、あまり成功しなかった。 』
泉鏡花 - Wikipedia








◆愛知揆一の墓

『愛知 揆一(あいち きいち、1907年10月10日 - 1973年11月23日[1])は、日本の大蔵官僚、政治家。初め参議院議員、後に衆議院議員に転じ、外務大臣や大蔵大臣などを歴任。 』
愛知揆一 - Wikipedia








◆荻野吟子の墓



『荻野 吟子(おぎの ぎんこ(戸籍上の本名:荻野ぎん)、1851年4月4日(嘉永4年3月3日) - 1913年(大正2年)6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である。女性運動家としても知られる。なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる。』
荻野吟子 - Wikipedia








サトウハチロー

『サトウ ハチロー(1903年明治36年〉5月23日 - 1973年〈昭和48年〉11月13日)は、日本の詩人、童謡作詞家、作家。本名は佐藤 八郎(さとう はちろう)。多くの別名を用いており、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、清水士郎、清水洋一郎、並木せんざ、江川真夫、熱田房夫、倉仲佳人、倉仲房雄、などがある。旧制早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)中退。作家の佐藤愛子は異母妹にあたる。
「うれしいひなまつり」、「リンゴの唄」の作詞者として知られる。 』
サトウハチロー - Wikipedia








村山知義の墓

『村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
息子の村山亜土は児童劇作家。 』
村山知義 - Wikipedia








◆初代喜多村緑郎の墓

『初代 喜多村 緑郎(しょだい きたむら ろくろう、1871年9月7日(明治4年7月23日) - 1961年(昭和36年)5月16日)は、明治 - 昭和期の新派の女形俳優。 』
喜多村緑郎 (初代) - Wikipedia








いずみたく



『いずみ たく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本の作曲家。元参議院議員第二院クラブ)。本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。 』
いずみたく - Wikipedia








◆三代目市川左団次・六代目市川門之助の墓

『三代目 市川 左團次(いちかわ さだんじ、1898年(明治31年)8月26日 - 1969年(昭和44年)10月3日)は、大正から昭和中期の歌舞伎役者。本名は荒川清(あらかわ きよし)。1952年前名市川男女蔵から襲名。屋号は高島屋定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松皮菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳号は「新車」。
初代市川左團次から二代目市川左團次相伝された男性的な力強い芸風とは大きく異なり、江戸っ子で門弟から芸一筋で出世し門閥の養子として大名跡を襲名した三代目は、様々な役割を器用にこなしながらも、あくまで脇に徹する手堅さを持ち、苦労に裏打ちされた存在感のある独特の風があった。戦後歌舞伎を盛りたてた名優の一人である。 』
市川左團次 (3代目) - Wikipedia

『六代目 市川門之助(ろくだいめ いちかわ もんのすけ、文久2年〈1862年〉- 大正3年〈1914年〉8月)とは、明治に活躍した歌舞伎役者。屋号は瀧乃屋定紋は四ツ紅葉。俳名は新車。本名は荒川清太郎(あらかわせいたろう)。 』
市川門之助 (6代目) - Wikipedia








◆アレクサンダー・ジョセフ・ヘアーの墓



 アレクサンダー・ジョセフ.・ヘアー先生は1848年口ンドンに生まれ、明治の初めに来日、海軍省傭員となる。
 一旦 北米に渡るが、再来日し、1879年 一橋大学の前身である商法講習所(明治八年、1875年森有礼が創設) に着任した。その後、同校の後身である東京高等商業学校を含め通算四〇年間教育に携わり、最古参の 外国人教師として、勲三等旭日章を受けられた。
 ヘアー先生が学生たちに教えた商業英語、商業通信文は開国間もない我が国実業界に大いに貢献した。
 一九一八年五月病没。享年七〇歲。住居の表札に「平谷」と書く茶目っ気もあった。
 墓石および石碑銘文(左記ご参照)は先生の教え子であった同窓有志者により一九ニ九年三月に建立された。

 故アレキサンダー、ジョセフ、ヘヤー君西暦一千八百四十八年九月七日英京倫敦二生レ長シテ「リッチモンドセミナリー」1入リ羅典希臘語ヲ研究シ又沸獨二游ヒ其語学ヲ修ㄙ明治ノ初本邦二来リ海軍省傭員ト為リ其後北米二航セシモ再来商業ヲ営ㄙ明治十二年我東京高等商業学校ノ前身タル商法講習所ノ教師二聘セラル爾来四十季一日ノ如ク帝国商業教育二貢献シタル功績実二偉ナリトス朝廷特二勲三等旭日章ヲ授ケラル大正七年五月九日病没ス齡七十歲君性温厚寡言人敬愛ス今ヤ本校将二大学二昇ラントシテ君在ラス惜ムへキナリ頃日門人等相謀リ碑ヲ建テ且ッ本校内二君/記念図書ヲ備エ以テ遺芳ヲ千載二挹ムト云爾
 大正九年星次庚申三月建之 東京高等商業学校同窓有志者








◆ラファエル・フォン・ケーベルの墓



 ラファエル・フォン・ケーベ ル (1848~1923)は、ドイツ系口シア人の家に生まれ、モスクワ音楽院で音楽を学んだのち、ハイデルベルク大学に移り哲学と文学を学びました。明治二六年(1893)、帝国大学文科大学外国人教師として来日し、首学や美学を講じました。また、東京音楽学校でも教鞭をとりピアノと音楽史の指導に当たるとともに、数多くの演奏会に出演しビアニストとしての手腕も発揮しました。日本の哲学の蒸礎を築き、また、日本近代音楽の葵展に大きな影響を与えたケーベルは、大正一二年(1923)に横浜で亡くなりました。








◆聖心会ミッショナリーの墓地



 聖心会はカトリックの女子修道会で、1800年に聖マグダレナソフィア・パラによって、 フランスで創立されました。その後、世界各地に広がり、1908年には、ローマ教皇ビオ10世の命を受け、女子の高等教育機関設立のために、日本にも聖心会会員が送られました。 それ以来、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ等から来日し、日本の子女の教育に貢献し、1916年から1953年までに没した聖心会会員24名が、ここ雑司が谷霊園に埋葬されています。








森田草平の墓

『森田 草平(もりた そうへい、1881年明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:万戸 満平。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 』
森田草平 - Wikipedia








◆尾形月耕の墓

『尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日[1]〈1859年10月10日〉 - 大正9年1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 』
尾形月耕 - Wikipedia








佐野利器の墓

『佐野 利器(さの としかた、1880年明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。1950年日本学士院会員。
芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 』
佐野利器 - Wikipedia








雑司が谷霊園管理事務所








金田一京助の墓

金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者民族学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。東京帝国大学より文学博士。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章文化勲章盛岡市名誉市民[1]。歌人石川啄木の親友であったことでも有名。
長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者。 』
金田一京助 - Wikipedia








江戸家猫八の墓

『初代 江戸家 猫八(えどや ねこはち、慶応4年4月3日(1868年4月25日) - 昭和7年(1932年)4月6日)は、物真似師。 』
江戸家猫八 (初代) - Wikipedia








半分以上残っているので別日に行くことにした。
また次回に!!
間違っている箇所があると思います。
ご指摘くださると助かります。
ぺこ <(_ _)>