2022/02/15 三ノ輪散歩 07 千束繁城稲荷神社/仲之町通り/台東病院/吉原神社/京町公園/花園通り

吉原へ入って徐々に東へ進む。




◆千束繁城稲荷神社


花吉原名残碑

 二神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に繁榮しやがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ万客粹を争ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせざりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を殘すのみ 有志等この池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の營みなりけりと云爾。


 吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和三年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦三年(1657)の大火を契機に、幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され同明暦三年(1657)八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年(1958)「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は、昭和三十五年(1960)地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
 昭和四十一年(1966)の住居標示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。


弁天池



此度弁天池は目黒錦鯉センター・小杉衛氏のご厚情により修復防水がされ工事一式・鯉等を奉納されました。深く感謝申し上げます。


鳥居



新聞記事など

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◆仲之町通り

商店街♪











◆台東病院









◆吉原神社


お穴様



此処の地中には神社の土地をお守りする神様がおられます。
心をこめてお詣りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしております。


逢初櫻



「逢初め」とは、恋が焦がれている人に初めて会うという意味があり二百年前に吉原神社(旧吉徳稲荷神社と称す)の御神木として崇信されていたがm明治四十四年の大火で焼失し、忘れられて現在に至る。
今、うれしくも百年ぶりに吉原神社御神木として復活することができました。浅草防犯は全協力会の甚大なる努力と奉納に深く感謝します。










◆京町公園






旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧 浅草新吉原京町二丁目

 元和三年 (1617)幕府は日本橋葺屋町東側 (現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが蔑の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは蔑原,と呼ばれた。そして寛永三年(626)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。 明暦二年(1656)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五カ町であった。そのうちの京町二丁目は一丁目より遅く、元和六年(1620)頃にできた町で、大阪や奈良から移ってきた人達が営業をはじめた。









◆花園通り











続く。