2022/05/04 荻窪三庭園巡り 02 大谷戸さくら緑地/荻窪二丁目アパート/荻外荘公園/なみすけマンホール/荻窪第二児童遊園/三ちゃん/新高円寺駅

荻外荘の後は北進。
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◆大谷戸さくら緑地










荻窪二丁目アパート












◆荻外荘公園

『旧邸宅は1927年(昭和2年)に伊東忠太の設計により大正天皇の侍医頭入沢達吉の邸宅「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」として創建された[2]。近衛は、南に斜面をもった高台に立地し、近くは善福寺川から遠くは富士山までの景勝を一望のもとに見渡せるこの別荘に惚れ込み、入沢を口説き落として1937年(昭和12年)、これを購入した。 1938年には邸宅の北側に蔵と別棟が増築され、住まいの「書斎」と「寝室」は同年から1944年頃に改修を受けている。近衛家には目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻外荘は別邸なのだが、近衛はこの荻外荘が殊の外気に入って、文化サロンとしても利用し[4]、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかった。
郊外にあるものの、青梅街道に程近い上に国鉄中央本線の駅にも近いという便利な立地にある上、官邸の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衛は政治の場としても活用した。同1937年7月第一次近衛内閣が発足されると重要な話し合いや会議が開かれ、有名になった[7][8]。1940年には『政界往来』に「荻外莊清談」を連載している。
「東亜新秩序」の建設を確認した1940年(昭和15年)7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応についてを協議した1941年(昭和16年)10月15日の「荻外荘会談」など、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定された。1941年(昭和16年)9月末に近衛から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官山本五十六が、「それは是非やれと言われれば初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」という有名な回答で近衛を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。
こうした変則的な政治手法から「荻外荘」の三文字が新聞の紙面に踊る日は多く、この私邸の名称は日本の隅々にまで知れ渡るようになった。後には吉田茂の「目黒の外務大臣公邸」、鳩山一郎の「音羽御殿」、田中角榮の「目白御殿」などがやはり同じように第二の官邸のような機能を持ったが、その先例はこの荻外荘に求めることができる。 1945年12月16日に近衛が自決したのもここ荻外荘である。
荻外荘には近衛以外にも意外な住人がいたことが知られている。1940年(昭和15年)から近衛は自らのブレーンとして重用しはじめた井上日召を同居人としてここに引っ越させている。井上は右翼団体血盟団の創設者で、血盟団事件の首謀者として無期懲役判決を受けたが、この年の紀元二千六百年奉祝の特赦により服役8年で出獄したばかりだった。 』
荻外荘公園 - Wikipedia



 荻外荘は、昭和前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の邸宅です。当初は、昭和2(1927)年に、大正天皇の侍医を務めた医師の入潔達吉が、 義弟で建築家の伊東忠太に設計を依頼して建てた邸宅でした。 昭和12(1937)年に近衛文麿が入潔から邸宅を譲り受け、 その後、西園寺公望が「荻外荘」 と命名しました。 近衛は、ここで政治会談や第二次·. 第三次近衛内閣の組閣を行うなど、荻外荘は、近衛の主要な政治の場となりました。特に、 昭和15(1940)年の「荻窪会談」は、 第二次近衛内閣の基本方針が確認された会談として有名です。 戦後、昭和20(1945)年12月16日に近衛は邸内の書斎で自決しました。
 平成28(2016)年3月1日、昭和期の政治の転換点となる重要な会議が行われた場所として、国の史跡に指定されました。
 現在、建物部分は非公開ですが、史跡指定の趣旨に基づき、文化財として適切な復原整備と活用に向けた検討を進めています。











◆なみすけマンホール











荻窪第二児童遊園










◆三ちゃん

こういう佇まいのお店、とてもおいしいにおいがする!










新高円寺












角川庭園がお休みだったのは誤算だったなあ。
近いうちにまた!