2022/07/30 高円寺駅開業100周年イベント


高円寺駅開業100周年イベント。
15日とっていおいたのと一緒にまとめた。





◆開業100周年写真展










◆高円寺の鉄道・駅・学校などの変遷

こちらは7月15日に撮っておいた。


■高円寺の鉄道・駅・学校等の変遷

一八七二年(明治五年)    日本最初の鉄道(新橋~横浜)開業
一八八九年(明治二二年)   甲武鉄道(新宿~立川)開業
一八九三年(明治二六年)    高円尋常小学校開校(一九二五年杉三小に改称)
一九〇四年(明治三七年) 電気鉄道化(飯田町~中野)
一九〇六年(明治三九年) 国有化、中央東線(新宿~塩尻)開通
一九一一年(明治四四年) 蚕糸試験場開設
一九一九年(大正八年) 中央線が東京駅まで延伸(牛込~東京)
一九二二年(大正一一年) 7/15 高円寺駅開設(阿佐ヶ 谷駅・西荻窪駅も同日)
一九二三年(大正一二年) 関東大震災発生
一九二四年(大正一三年) 東京市杉並町大字高円寺桃園川周辺耕地整理



一九二五年(大正一四年) 杉並第四小学校(杉三小より分離)開校
一九二六年(大正一五年) 杉並第六小学校開校
一九二九年(昭和四年) 中央・総武線複々線化(お茶の水~中野)
一九三二年(昭和七年) 杉並第八小学校開校
一九三三年(昭和八年) 中央線急行(現快速)電車運行(東京~中野)
一九四五年(昭和二〇年) 4/135/25 山の手大空襲で高円寺大被害 8/15 終戦
一九四七年(昭和二二年) 高円寺中学校開校・杉森中学校(杉一小に)開校
一九四八年(昭和二三年) 高南中学校(高円寺第二中学として杉八小)開校
一九五二年(昭和二七年) 馬橋小学校開校
一九五七年(昭和三二年) 第一回「高円寺ばか踊り後の高円寺阿波おどり」開催
一九六一年(昭和三六年) 桃園川改修(暗渠化・下水 道化)



一九六四年(昭和三九年) 環七通り開通・10/10 東京オリンピック開催
一九六六年(昭和四一年) 中央・総武線高架複々線化(中野~荻窪)
一九八七年(昭和六二年) 国鉄民営化(東日本旅客鉄道株式会社)
二〇〇六年(平成一八年) 第一回「高円寺フェス」開催
二〇〇九年(平成二一年) 第一回「高円寺びっくり大道芸」開催
二〇一一年(平成二三年) 第一回「高円寺演芸まつり」開催
二〇一一年(平成二三年) 東日本大震災(福島・宮城・岩手等被災)
二〇二〇年(令和二年) 新型コロナ禍(飲食店等に甚大な影響/〜22年)
二〇二〇年(令和二年) 高円寺学園(杉四・杉八・高中の小中一貫校)開校
二〇二一年(令和三年) 東京二〇二〇オリンピック・パラリンピック開催
二〇二二年(令和四年) 高円寺駅一〇〇周年(阿佐ヶ谷駅西荻窪駅も同日)




■高円寺のまちの歴史

高円寺の歴史は、 まちが変化した、
徳川家康の江戸開府(1590年)、
明治維新(1868年)、
高円寺駅開設および関東大震災(1922 23年),
第二次世界大戦終戦 (1945年)、
東京オリンピック (1964年)、
の転換期で6つの期間に分けます。

1) 江戸開府までの高円寺 (~1590)
 桃園川流域から縄文土器や石器が出土していて縄文時代中期 (約五千~四千年前)には人が住んでいました。
 その後、平安時代の10世紀頃まで遺跡や記録はないようです。
 室町時代には、 本地域では、農地で作物を作り、集落を形成して、神社(天祖・ 氷川・馬橋)を創建したとされています。
 中野や阿佐ヶ谷には武蔵国の府中や鎌倉に通じる道が通っていました。
 桃園川流域の地域は、雨水が少なく土壌も痩せており、人口や穀物生産は、周辺地域より少なかったようです。
 室町時代の 1477年に関東管領上杉家者の太田道灌は、江古田沼袋の合戦で石神井の豊島家を破りました。 その落ち武者の埋葬遺跡が光塩女子学院 東側にあった 「六つ塚」 とされています。
 戦国時代には、 小田原北条家が中野・杉並の所領を持ち、 中野の名主堀江家が、この地域の年貢の管理等を行っていました。

2) 江戸時代の高円寺 (~1868)
 1590年小田原北条家が滅び徳川家が江戸を本拠としました。
 江戸時代初期に城の建設等の石灰※1や杉材等を運ぶため、 青梅街道が造られました。 さんし公園前に 新宿から一里の榎の里程標ができ、 お茶屋等が並び村の中心となりました。
 高円寺は野菜や木材等を生産する近郊農村として発展しましたが、6割が年貢として取られ、道普請・荷物運搬等の助郷の他、 鷹狩人足にも青壮年が駆り出され苦しい生活でした。
 ※1: 壁に塗る漆喰の材料
 古くは中野郷小沢村でしたが、 三代将軍家光が鷹狩りで高円寺に度々訪れたことから高円寺村と呼ばれました。
 江戸中期以降、 新田開発により水田10町歩・ 畑 20町歩、 石高約800石で、 米・麦・粟・ ナス・筍等が生産されました。 江戸末期の農家数は、 桃園川の南 (通り)に60数戸、北(原)に40数戸だったようです。
 1830 (天保) 年代に馬橋・高円寺・中野村では日照りで飢饉が起き、善福寺川の成宗弁天池から暗渠※2等で馬橋の桃園川に引水し水量を確保しました。
 ※2:水を通すトンネル

3) 明治・大正時代の高円寺 (~1922)
 明治になり新制度が定着するまで時間がかかりましたが、 明治20年代には戸籍法、地租改正、 町村制等の新しい地方自治の形が整いました。
 1889年新町村制により、 高円寺村は、東多摩郡杉並村大字高円寺となり、 その後 (1924年) 豊多摩郡杉並町大字高円寺となりました。
 1884年、 阿佐ヶ谷の桃野小学校(現杉ー)の分教場が高円寺に開校し、1893年に高円 尋常小学校 (1925年杉三に変更) となりました。
. 明治始めに資力ある農家は藍染原料の藍玉を作る家内工業を起こしました。
 しかし、明治後期にドイツの化学染料輸入により倒産が相次ぎ、 所有地にお寺が移転してきて寺町通りとなりました。
 1911年、 蚕種の製造と品種改良のため蚕糸試験場が開設されました。
 大正時代には文明開化の波が高円寺にも伝わってきました。 常食は稗(ひえ)と麦から麦と米になり、 行商が生鮮食品等を売りに来るようになり、洋服が着られ、電灯は1920年頃に灯りました。
 少しずつ都会的な農村になりました。

4) 戦前の高円寺 (~1945)
 1922(大正11)年に高円寺駅が開設しました。 翌年9月1日、関東大震災が東京・横浜を中心に襲い、 被災者190万人の被害を受けました。 震災後、 高円寺では多くの農地で耕地整理が行われ、1930年頃までには電気・水道商店街・桃園川等が整備され急速に宅地化が進み、人口が激増しました。静かな 「むら」から賑わいのある「まち」 に変貌しました。
 太平洋戦争のため、 1944年頃から鉄道や主な道路沿道を防火帯として強制撤去し疎開が行われ、 また、 宮城県への集団学童疎開や工場への学徒動員が行われました。
 高円寺周辺は、 1945年4/13・5/25の空襲により広範囲が被災しました。

5) 終戦から東京オリンピック
 終戦前後は食料危機と物価高騰の時代でした。
 1948年東京都は、 高円寺・馬橋の被災地約55ha に戦災復興区画整理を指定しましたが、 地元の反対のため規模を縮小し、 駅南北の地区や高南通り等が整備されました。
 義務教育が63制となり、新たに高円寺・南杉森中学校や馬橋小学校が開校しました。
 昭和30年代には、 生鮮食品等の小売店、飲食店や映画館等多様な施設が立地し、 阿波おどりも始まり、 商店街が活性化しました。
 東京オリンピックに合わせた、 中央線 高架化 東西線乗入、 丸の内線・環状七号線の開通、桃園川の暗渠化 緑道化により、 高円寺の骨格が造られ、 下水道も整備されました。

6) 昭和後期 平成・令和の高円寺(~2022 )
 1960~70年代の高円寺は吉祥寺・国分寺と並ぶ、団塊世代など30代前半までの若者単身者のまちでした。多くは木造賃貸アパートに住み、 音楽・芸能 芸術の若手関係者も多く、出世・ 成功すると他所の地に転居しました。
 90年代以降、駅や幹線道路周辺に大小のビルが建ち、 商店街は後継者難等から貸店舗が特色ある店舗・施設が減り、古着店・増え、古本店・居酒屋等が増えています。
 住宅地では、高齢化、 敷地の細分化や後継者の高円寺離れ等、 定住者の減少や町会等のコミュニティ衰退の危機にあります。
 環七地下調整池や第二桃園幹線整備により水害危険性は減りましたが、 木造密集の状況は変わらず地震危険性はまだ残っています。



■ 高円寺の移り変り

 高円寺のまちが大きく変化した契機は、 1922・23年の鉄道駅開設と関東大震災です。 また、東京オリンピックの開催でさらに変わりました。
 これらにより地域の環境が農村から街へ、さらに都市へ、地域住民の利便性・快適性の高い生活環境や生活様式へと変化しました。
 この都市的な変化の様子を、 地形と土地利用、交通施設(道路)、人口・住宅地、商業施設、教育施設コミュニティの視点から見ていきます。
 また、各時代でどのように土地や施設が使われたのか図面等から推し量ります。

1) 地形と土地利用
 1920年(大正中期頃までは、桃園川沿いの低地部(幅150~200m) は水田に、南北の丘の上に農家が散在し、その周辺は畑として活用され、谷と丘の間の斜面や家々の周辺は檀林等に覆われていました。
 高円寺駅開設・関東大震災後、これらの農地・山林は、宅地開発等により道路が整備され住宅が立地し、 さらに戦後の戦災復興事業等で現状の市街地になりました。

2) 交通施設 (道路)
 大正中期 (1922年)演院の高円寺の中心は青梅街道東高円寺で、そこから阿佐ヶ谷北口神明宮・世尊院、堀の内妙法寺中野駅(明治以降)へ向かう道ができました。
 戦後、自動車交通が急増しましたが、 通過交通量の多い青梅街道 ・ 早稲田通り・環7通り (1964年完成) は、JR高円寺駅周辺や商店街からやや離れているので、他のに比べて、歩行者・自転車にとって、 恵まれた交通 環境にあります。

3) 人口と住宅地
 1922年の高円寺駅開設以降、1930年頃迄人口が急増しました。この7~8年間に電気・ガス・水道等の生活基盤施設が形成され、 学校、商店や文化・娯楽施設も整いました。
 戦後も交通・商業の利便性と住宅地としての快適性により、若い一時的な単身通勤者の多い街となりました。 高円寺住民の人口構成は、全国各地から20歳代で流入し、50代位までに流出しますが、近年流入・流出者の減少と、その高齢化が見られます。


●大正中期までの土地利用
 明治14(1881)年の地形図に、山林を緑、田を水色、畑を黄土色、 宅地を桃色、 社寺を紫で着色しました。
 桃園川周辺に田、南北の台地上に畑 主な道路沿道等に人家が散在していました。

●主要都市施設の形成
 上記の図面に現在の主要な都市施設を乗せました。
 主要な都市施設は道路・公園・教育施設等の都市基盤施設としました。これらの施設の多くは1930年代または 1960年代に整備されました。
げんざい

●現在の土地利用
 土地利用現況調(杉並区2015年)の高円寺の部分です。
 上の明治の地形図と比べると非常に細分化され密集した状況が見られます。
 駅周辺や主な道路沿いに商業 ・業務施設が集まり、周辺地区に住宅・教育施設・公園等があります。

4) 商業施設
 1924年頃から高円寺は急激に宅地化し、 駅南北の道路や中通り、 エトアール踊り等の沿道に商店・露店が広がりました。
 地元商店街の努力で高円寺駅周辺商店街の道路や桃園川を整備して、昭和初期には人の流れが昼 夜絶えず、 東京西部で屈指の商圏・集客力を実現しました。
 人口当りの店舗が非常に多い一方、近年は店舗自体が減少し、特に物販店等が減り、 飲食店や専門学校・福祉施設等が商店街にも増えています。

5)教育施設
 江戸時代、馬橋村(現梅里二丁目)の清見寺(せいけんじ)で、住職が読み・書き算盤等を教え、 高井戸や天沼からも子供達が習いに来ました。
 1875年、 桃園学校第一番分校がこのお寺に開設されました。
 後の杉並第一小学校です。
 1893年、高円寺尋常小学校(杉三)が現高円寺体育館付近に開校し、大正末からの人口増加期に杉四、杉六、杉八小学校が、戦後の63制に伴って高円寺・高南・杉森中学校と馬橋小学校ができました。児童生徒衆は激減後、近年は横ばいになってます。

6(コミュニティ(杉並区区民生活部地域課史料)
 鉄道開通まで桃園川の南は 「通り」、北は「原」と呼ばれ、南はは天祖神社、北は氷川神社の圏域でした。
 鉄道が開通し駅が出来た (1920年代)頃から、鉄道の北と南に、小学校区や商店街等の施設圏域が分かれました。町会は鉄道の北が8、 南が14町会です。
 鉄道高架に伴い南北の融和が図られています。 1965年頃の新住居表示により高円寺の区域界は変更され、 青梅街道南側は和田 梅里に、西側の馬橋の一部は高円寺に編入されました。


■高円寺の文化・生活の歴史

 長い歴史の中で高円寺は、自由で個性的な空気を生み、文化・生活に多様性と深みを積み上げてきました。
 誰にでも暖かい高円寺の風をうけて私たちも自由で多様な文化・生活の一端を担いたいと思います。

1) 「高円寺」物語
 昔、旅人がこの地で父娘の住む農家に宿をもとめました。 食べ物がなく断りましたが、 たっての頼みに泊める事にしました。 娘が食べ物を探しに外出すると、 父は旅人が大金を持っているのを知り、殺めて金を奪いました。 帰宅した娘は大変悲しみ髪を切って尼となり庵を建て旅人の菩提を弔いました。
なかのじょうがんじ けんしつおしょう
 1555年、 中野成願寺(じょうがんじ)の建室(けんしつ)和尚が庵を改修し高円寺としました。
しょうぐんとくがわいえみつ たかが
 時は下り、将軍徳川家光が鷹狩りの際、雨宿りに高円寺に立ち寄ると住職は一般の客としてさりげなくもてなしました。 家光は、そのことが気に入り、狩りの度に立ち寄り、村の名も小沢から高円寺になったとされます。

2)鷹狩りと高円寺
 武家の領主の嗜みに鷹狩りが行われました。江戸から5里 (20km)以内の村を将軍の鷹場としその一つが中野筋でした。鷹場関係の役人が見役で現高円寺南5丁目に住み、 農民を禁制・法度や荷役賦役等で厳しく管理したので、農民だけでなく代官からも疫病神として恐れ嫌われました。維新の際、鳥見役宅は住民の打ち壊しにあい一族逃亡し、今は役宅跡地も不明です。

3)お犬さまと高円寺
 五代将軍綱吉は当初、儒教の仁や仏教の慈悲を理念に病気の者や捨て子の保護等を行いました。それが生き物にもおよび、 生類憐みの令(1687年)を歪め、特に犬の虐待には重罪を科しました。
 このため、江戸市中に野犬が増えたので、収容小屋を中野に設置しました。 数十万頭が30万(約100ha) に囲われ、 その敷地には高円寺北一・二・南五丁目も含まれました。1709年、綱吉の死と共に制度は廃止され、犬は分散されました。

4)幻の飛行場計画
 中野駅北側の四季の森一帯は1897(明治29)年から陸軍鉄道隊、電信隊等が利用しました。 鉄道線路敷設や電線架設の演習のため電信隊の野原として、馬橋公園北を通り日大二高まで2.5Kmの土地がありました。
 1920年頃、これを幅100m滑走路とし馬橋公園周辺を格納庫とする飛行場計画が決まりました。しかし、市街地に隣接し危険なため実現しませんでした。

5) 鉄道・駅の歴史と高円寺
 1872(明治5)年、新橋・ 横浜間に鉄道が開通し、その後、全国に鉄道が敷かれ、人の動きや経済活動を先導しました。
 1889年、 甲武鉄道が新宿・立川間に中野・武蔵境・国分寺駅と共に開業し、その2年後、荻窪吉祥寺駅が開設しました。 1906年に国有化され、 1919年には東京・吉祥寺間が電化されました。
 中野・荻窪間の新駅として、当初は「馬橋駅」の開設の動きがありましたが、 1922年高円寺・阿佐ヶ谷駅が開設しました。 その後関東大震災後の急激な人口増から、 1933年迄にお茶の水・中野間の複々線化や総武線乗入れが行われました。さらに、東京オリンピックに向け中野・荻窪間の高架・複々線化と総武東西線が乗入れ、その後三鷹迄延伸されました。

6)大正(貞明(ていめい)皇后と高円寺
 大正皇后の節子さまは1884(明治17)年6月、 公爵九条家の四女に生まれ公家の風習で誕生の7日後に高円寺の大河原金蔵(おおがわらきんぞう)・ てい夫妻の里子になりました。
 節子さまは、夫妻に家族同様に育てられ、 高円寺村の田園でクリを拾い、 トンボを追って丈夫に育ち、4年半後に幼稚園入園のため九条家に戻りました。
 その後も夏休み等には婆の料理を食べたり椿を植えに、再三大河原家を訪ねました。
 1900年、皇太子嘉仁(’よしひと)親王と結婚し1912年大正皇后となられました。

7)映画・音楽と高円寺
 昭和初期からテレビが普及する1960年代迄の大衆娯楽は映画でした。
 高円寺には戦前、 高円寺館・高円寺映画劇場(南口)・ 興風(こうふう)映画劇場(東高円芋)の3館が、戦後は平和劇場・高円寺映画劇場・エトアール劇場 ・ムービー山小屋・杉並映画劇場の5館の映画館がありました。60年以降次々に閉館し、 1989年、 平和劇場が閉館して跡地は 駐輪場になりました。
 60・70年代の高円寺には若者が多く、まだレコードが高かったので、新しい音楽を聴くため、 ロック喫茶やライブハウスが増え、また若い頃の吉田拓郎南こうせつ坂本龍一矢野顕子チェッカーズ大槻ケンヂ
等が住み、遠方からムーヴィン・ジロキチ・ペンギン等に聴きに来ました。ロックの高円寺と言われジャズの阿佐ヶ谷等と共に音楽が溢れていました。

8)古書店・古着店と高円寺
 高円寺に古書店は昔からありましたがなぜか1商店街に各1軒でした。1968年、北口に西部古書会館が出来、ほぼ毎週末即売会が行われるようになり、概ね2000年以降、北口を中心に古書店が増えてきました。
 また、平成に入り (90年以降) 古着店が南口を中心に立地しました。 これと並行して高円寺に若い女性が増えました。

9)飲食店と高円寺
 高円寺は単身者が多く戦前から美味しい定食屋や中華食堂がありました。
 一方、駅周辺には呉服・眼鏡・靴等特色ある物販店が軒を連ねていましたが、昭和末頃から後継者不足等により建替え賃貸する店が増えました。
 そこを借りる飲食店が増え、短期で替わる店やチェーン店もありますが、安くて居心地の良い店が増え、 特に夜にはお客どうしの交流も活発となり多様で開放的なまちとなります。

10)座・高円寺
 1952(昭和27)年、高円寺駅ビルが新設された際、1階に協和(りそな銀行白木屋(東急ストア)、 2階に白木屋、3階に高円寺会館(約300人収容のホール)が出来ました。 高架に伴う建替え (1964年) で高円寺会館は現在の座・高円寺の位置に移転しました。
 そして、2009年高円寺会館が杉並芸術会館「座・高円寺」に頃真替えしました。
 座・高円寺は伊藤豊雄(とよお)氏の設計で、3つのホール、稽古場、カフェ等があり、ホール1は約240人収容で年間二十数作品が上演されています。

11)四大祭りと高円寺
 高円寺の商店街の活性化や、 地域の振興を目的に 高円寺の街中で季節毎の祭りが行われます。
阿波おどり: 1957年、南ロパル商店街青年部誕生を祝う「ばか踊り」が変化し、8月終りに氷川神社のお祭りに合わせ1万人の踊り手と100万人の観客で、地域価値向上をけん引しています。
② 高円寺フェス: 2007年、 商店街若手経営者達により、手作りで気軽に始まり、サブカルチャーのまち、高円寺の秋の大文化祭として、着実に定着しています。
③ びっくり大道芸: 2009年より春の連休前に、マジック・舞踏 ・ ジャグリング等、 数十組の演技が、街中で披露されます。
④ 演芸まつり : 2011年より冬の2月に10日間、商店街の店舗や寺社等多様な場所で、 高円寺にゆかりある芸人達の落語・漫才・講談・奇術等を観笑します。

12)馬橋の地名について
 昔、桃園川の湿地帯を軍勢が通ったとき馬を代わりにして渡ったので馬橋になったという説と、桃園川に流れる小川に馬が渡れる橋があったので馬橋と呼んだという説があります。
 馬橋村は、明治の町村制により豊多摩郡杉並村大字馬橋、その後杉並町大字馬橋、杉並区馬橋でしたが、 1965(昭和40) 年頃、 新住居表示により中央線北側はほぼ高円寺に、南側は馬橋通り東が高円寺、西が阿佐ヶ谷、青梅街道南は梅里に編入されました。
 現在、 地名としての馬橋は消えてしまいましたが、小学校・公園・神社等に残されています。
 地名は文化です。 今後も「馬橋」という地名は残したいものです。
※新たに梅里という地名が作られました。


パル商店街入り口

こちらも100周年をお祝いしていた。



そういえば高円寺の住民になってだいぶたつなあ・・・・・。