今シーズンに撮り忘れた写真があったので、何度か訪れた。
結局最後に行ったイチョウが綺麗だった12/05に行ったときの写真がメインで。
それ以外の写真は日付を記載してある。
過去にも訪れたことがある。
2018/08/28 鬼子母神散歩 03 玄静院/観静院/法明寺の南無妙法蓮華経石碑/鬼子母神堂/雑司が谷みみずく公園/学問所雑司明哲院/鬼子母神とすすきみみずく - ovanの社会科見学
2022/10/26 定例見学会 雑司が谷駅/雑司が谷霊園/宣教師館/並木ハウス/雑司が谷鬼子母神 - ovanの社会科見学
雑司が谷鬼子母神堂は、永禄4年(1561)に清戸(せいど)
(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正6年(1578)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、生保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成があるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。
現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿」・「相の間(あいのま)」・「本殿」の3つの建物で構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間元禄13年(1700)に建てられた。広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室満姫(まんひめ)」の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻を飾る梁や組み物の彫刻には広島地方の持社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。
これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され、平成28年7月25日に重要文化財に指定された。
◆重要文化財指定の碑
◆鬼子母神像
2022/12/10 撮影
鬼子母神の夫でインドから伝来しました。
大黒天の持つ小槌の「ッチ」は大地の「土」に通じ、物はすべて大地より生み出される。つまり「宝」を打ち出すという豊作の神でもあり、日本の出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)の「大国様」と合わされ親しまれています。
◆上川口屋
2022/10/26 撮影
境内にあった駄菓子屋さん。
◆石塔など
どれがどんなものなのかわからなかった。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>
◆鬼子母神堂のみみずく
鬼子母神堂のみみずく
鬼子母神鐘がなったらみみずくが
みんなの家庭に幸せ運ぶ
※2022/12/05撮影
◆鬼子母神の公孫樹
樹齢 六百年以上
幹周 八メートル
樹高 三十余メートル
雄樹にして成長力を持続
◆武芳稲荷大明神
武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミクマノミコト)を祀った堂宇です。
「日本書紀」では「ウケ」は穀物・食物を意味し、倉稲魂命は「穀物の神」といわれてます。昔、このあたりで農耕が盛んに行われていたことが伺えます。
創建の年代は不明ですか、雑司ヶ谷鬼子母神縁起によれば、天正六年(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を安置したと記されていますので、武芳稲荷堂はこれよりも以前に建立され 天正六年当時は既にこの地の地主神として多くの人々に知られていました。
もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが、昭和四十二年に現在の堂が建立され昭和四十六年には、鳥居二十五基、昭和四十九年正面に神狐像二体が奉納されました。
武芳稲荷尊天は、また古来より「出世稲荷とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともにその霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に尊崇されています。毎年、節分後の午の日に初午大祭,五月十八日に夏季大祭,九月十八日には秋季大祭がそれぞれ修さ 皆様開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。
武芳稲荷大明神の鳥居
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
2018/08/28 記事アーカイブ
雑司が谷鬼子母神堂は、永禄4年(1561)に清戸(せいど)
(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正6年(1578)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、生保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成があるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。
現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿」・「相の間(あいのま)」・「本殿」の3つの建物で構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間元禄13年(1700)に建てられた。広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室満姫(まんひめ)」の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻を飾る梁や組み物の彫刻には広島地方の持社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。
これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され、平成28年7月25日に重要文化財に指定された。
鬼子母神堂法不動
イチョウ (銀杏・公孫樹)は、一属一種のイチョウ科に属する、裸子植物の落葉高木である。耐寒耐暑性があり、社寺の境内樹・庭園樹・公園樹・街路樹などに広く植栽されている。中国原産といわれ日本へは、遣唐使の帰国によってもたらされたという説もある。雌雄異株で、4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し、黄葉する。
樹高30メートル、幹周8メートルの雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永 年間(1394 〜1428)に僧日宥 が植えたと伝えられている。古来『子授け銀杏』と言われ、戸張苗堅 の『櫨(ろ)楓』によると、婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄(しめなわ)を張るようになったのは文政 年間(1818〜29)の頃という。