2023/02/03 ひばりヶ丘・武蔵境散歩 04 養老田碑と稗倉/コール田無/田無神社/津嶋神社/田無用水跡(ガード)/柳沢児童広場/西武新宿線ガード

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/02/03/183000




◆養老田碑と稗倉




 この碑には、江戸時代後期の凶作相次ぐ時代に、田無村名主下田半兵衛富宅の行った善政を、子孫に伝えるための碑文が刻まれています。名主半兵衛富宅の出自、村民を思う人柄が記され、 また、安政元年(一八五四)に養老畑を開き、「惜しみて施さざれば天に報ゆる所以に非ざる也」と、村内の生活困窮人や老人、往来で行き倒れた人らを保護したことや、二十九年間にわたって周辺四十一カ村の寄せ場名主を務め、その間、訴訟が頻発する関東の農村で、幕府の法廷を煩わせるようなことがなかったことなどが書かれています。
 碑文は、幕末の著名な儒学者安井息軒(そっけん)によるもので、田無村の学者賀陽済(かやわたる)の筆によるものです。安政年間(1854~59)に建てられたものと推定されています。



 天保四年から七年(1833~36)にかけての大飢饉は言語を絶するものでした。田無村名主下田半兵衛は村に貯蔵していた稗を残らず拝借して救済に当てましたが、その補充ができないうちに次の凶作に見舞われるというありさまでした。
 天保九年(1838) 半兵衛は凶作に備えて稗を蓄える方法を代官に願い出て、自分の庭に五百石入りの稗倉一棟を自費で建てました。 貯穀は、半兵衛ほか主な百姓三十九人で百両を出費し、それを貸し付けた利子で年々稗を蓄えるという方法でした。そして、倉がいっぱいになったあとは、干支にちなんで十二分の一ずつ年々詰め替え、古穀を貧困者並びに火災病難等の者に分配するというものでした。
 稗倉は文久三年(1863)に建て替えられ、その一部がここに残っています。また、谷戸町にもこの稗倉の一部が残っています。
 稗倉の外部は厚い板を上から落とし込み、晴雨によって外壁の板が伸縮して湿気を調節する板倉造りです。


稲荷神社


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だいぶ風化してしまって判読できないので文字化を断念。





◆コール田無

西東京市の施設。
コール田無 西東京市Web





◆田無神社

別のページで!
2023/02/03 田無神社 - ovanの社会科見学





津嶋神社




判読できず、文字化を断念。





◆田無用水跡(ガード)

西武新宿線のガード。



線路の反対側(南側)へ。






◆柳沢児童広場(石神井川南町調節池)



『南町調節池は、石神井川の治水安全度を早期に向上させるために、石神井川の上流部において、西東京市南町一丁目池内に設けた調節池です。
調節池は掘込式であり、石神井川の水位が上昇すると、越流堤から洪水を取水します。排水は、石神井川の水位が下がると、池下流端に設けた排水口より自然に排水されます。
調節池内は、平常時は柳沢児童広場(西東京市)として利用されています』
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000046129.pdf





西武新宿線ガード

西武新宿線の線路。



線路の反対側(北側)へ。





続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/02/03/193000