2023/02/03 田無神社


『田無神社の創建は、鎌倉時代後期の正応年間(1288年 – 1293年)と伝わり、同社は田無北部の谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれ、創建当初より級津彦命 (しなつひこのみこと)・級戸辺命( しなとべのみこと)を祀る。
江戸時代初期、徳川家康江戸幕府を開くにあたり、城や町の建造のために大量の石灰を必要とした。家康は、石灰を青梅の地に求め、青梅街道を開いたが、その際、肥沃な谷戸の住人が南の青梅街道沿いに移住し、宿場町・田無を造営した。この動きの中で、1622年(元和8年)、宮山に鎮座する尉殿大権現が上保谷分祀され、1646年(正保3年)、宮山から田無(現在地)に分祀され、1670年(寛文10年)、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮が田無に遷された。
1872年(明治5年)、尉殿大権現は熊野神社八幡神社を合祀、田無神社と社名を改めた。その際、主祭神大国主命須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神応神天皇をも祀り、現在に至っている。 』






田無神社本殿・拝殿
 田無神社は、鎌倉時代の創建と伝えられ、尉殿(じょうどの)権現社と呼ばれていましたが、明治五年(1872)の神仏分離令により田無神社と改称されました。また、もとは田無村字谷戸に鎮座していましたが、江戸時代初期に青梅街道が整備されると、街道に近い現在地に遷座されました。本殿は、桁行1.2m、梁間1,3mの入母屋造で正面と背面には千鳥破風を付け、前面の向拝は唐破風仕上げとしています。なによりもこの本殿を特徴づけるのは、扉、壁板、脇障子のいたるところに彫刻を施し、細部にまで地紋彫りを配するなどの優れた技巧にあります。安政六年(1859)、大工棟梁鈴木内匠と彫工嶋村源蔵(俊表)によって竣工していますが、江戸の堂宮建築技術が到達した高度な水準を示す社殿です。拝殿は桁行7.3m、梁間6.4mの入母屋造で、正面は千鳥破風を付け、前面の向拝は唐破風仕上げとしています。拝殿の建築年代については、前後殿境の透し欄間の裏側の墨書から明治八年(1875)に建築されたことがわかりました。当時まだ江戸時代の優れた技量が保持されていたことを示す遺構です。






史跡 賀陽玄節邸跡・現コール田無 田無周辺の医療と教育の発祥地
 文政六年に備前の池田藩侍医 賀陽玄節が諸国修行の途中、田無に立ち寄りました。当時、田無周辺には医師がおらず、困っていた名主 下田半兵衛(富永)は賀陽玄節に村の医療に手を貸して欲しいと懇願し、玄節が快諾して診療を始めると、村内ばかりでなく周辺の農村からも多くの病人が集まってきました。玄節は備前から家族を呼び寄せて、田無に永住することとなり、名主譜代の待遇で田無の村医となったのでした。
 その子賀陽濟もまた医師を志して、修行のため江戸昌平坂学問所で安井息軒に学んだ後、長崎まで出向いて医学を修めました。濟は昨烏庵丹雪と号した俳人でもあり、 また、医療のかたわら明治維新後に学制発布されるまで手習い所を営んで農村子女の教育に尽力しています。 は弟子たちに慕われ、生存中に弟子たちによって「昨烏庵賀陽夢香居士碑」が総持寺境内に建てられました。また、濟は能書家でもあり、その筆跡は今でも市内の各所で見ることができます。後に濟は田無神社の初代宮司となり、その後、賀陽家が代々宮司職を継いでいます。






御祭神
 田無神社の主祭神は、級津彦命・級戸辺命、大国主命であります。尉殿大権現と称されていた創建当初より級津彦命・級戸辺命をお祀りしております。 この二柱は龍田大社伊勢神宮・内宮の別宮である風日祈宮 外宮の別宮である風宮などでお祀りされる雨と風を司る神様です。 元寇の際に神風を吹かせ、日本の国土をお守りくださった霊験あらたかな神様であられます。現在は五行思想に基づき本殿に級津彦命・級戸辺命として金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍を配祀し五龍神として信仰されております。
 大国主命出雲大社の祭神であり日本各地の神社でお祀りされています。「古事記」によれば、素戔嗚尊の娘神である須勢理比売命と婚姻し、海の向こうからやってきた少彦名命と協力して日本国の開拓経営に尽力され、葦原中国の主となられました。その後、天照大御神葦原中国平定の命を受け天降った武御雷神に国譲りをし、幽界にお隠れになられました。非常に多くの異称とご利益を持つ神様です。






田無神社と五木寛之
 昭和二十七(一九五二)年九州から上京し、一時期、田無神社の床下住処にした大学生がいました。
 その若者は、十五年後五木寛之の名で発表した「蒼ざめた馬を見よ」により直木賞を受賞し、現代を代表する作家になります。
 上京時のことを彼は、「あちこちの神社にお世話になった」が、「その中でも最も快適だったのは田無神社の床下である」と、エッセイ「放浪」に記しています。短縮小説「黄金時代」は、その頃の体験に基づく作品です。
 「日記」からは、学生時代に田無を再訪していることもわかります。
 此の地には、五木寛二の青春の一場面が刻まれていると言えるでしょう。





◆赤龍






◆賀陽家屋敷稲荷神社






◆白龍






道祖神



田無神社では天孫降臨の際に道案内を務めた猿田彦大神とその妻神で天鈿女命を道祖神御神体としてお祀りしております。
道祖神は厄災の侵入防止のために、村の守り神として主に道の辻や集落の境に祀られる神様で、仲睦まじい夫婦神にあやかって縁結びや子孫繁栄のご利益があるとされています。
「結び所」に「縁結びみくじ」の鈴を括り付け良縁成就やご家庭の弥栄をご祈念ください。





◆参集殿


九頭竜


登録有形文化財

参集殿が登録有形文化財だった。
国指定文化財等データベース


御庭 銘 和敬清寂

 田無神社 総代 海老澤孫次殿は、平成二十二年天皇陛下宮中新嘗祭に御粟を奉納する栄誉に浴したことを記念して御庭を奉納されました。
 平成二十三年春東日本大震災伝統文化復興を祈念し、茶道裏千家鵬雲斎大宗匠千玄室殿は和敬清寂の碑文を奉納されました。
 石碑奉納は、西東京市茶道華道文化協会殿と初代会長折元宗和殿によるものです。
 御庭奉納から十年を経過した令和三年三月に補修工事を行っております。





龍神





◆節分の豆まきイベント





◆大黒様・恵比寿様








大鵬土俵



 此の土俵は昭和の大横綱であった大鵬幸喜親方が平成五年に五穀豊穣祭を記念して開いた土俵です。横綱大鵬関は優勝回数三十二回という前人未到の記録を残した不世出の大横綱でした。また、その人柄が慕われて、「巨人・大鵬卵焼き」と多くの国民に愛された事柄の代名詞に挙げられています。親方になってからも全国都道府県に救急車を寄附する等の善行を重ねられました。
 平成十一年には田無神社崇敬会初代会長に就任しその後、田無神社崇敬会名誉会長に推戴されました。平成十二年に還暦を迎えたことを機に、親方は本土俵を 「大鵬」と命銘されました。田無神社は本土俵大腸を通して相撲道の普及に寄与するものです。





日露戦争戦没者記念碑



 戦争での戦勝を記念し、明治四十年に教育者である刑部真琴によって建立されました。
 文字は日戦争の際に元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務めた大山巌による揮毫です。
 日露戦争では無村から七十一人が出征し、三人が戦死、六十八人が凱旋帰国しています。 七十一人の出征者のうち、七十人が陸軍、一人だけが海軍でした。この碑の裏には出征者の氏名が、田無小学校の初代校長・刑部真琴の発案によって彫られ、その消息を今日に伝えております。

大山巌
 日露戦争の総司令官、元帥、公爵。西郷隆盛の徒弟でもある。私心なく難に殉ずる精神と聡明さを備えた指導者であった。「大山はみずからを虚にした。実際、そこからすべてがうまれた。」
司馬遼太郎





楠木正成公像



 南北朝時代後醍醐天皇の命に応じて兵を挙げ、室町幕府の大軍と戦った楠木正成公は戦の神として崇められてきました。
 楠木正成公の子孫は、その後、武蔵の国保谷に移り住み、尉殿大権現の御分社である尉殿神社をお守りしたと伝えられています。
 楠木正成公の武功にあやかろうと、出征する若者が像の一部を砕いてお守りとし、戦場に臨んだとうたえられています。石像の一部が欠けており、補修されているのはその名残です。





◆清流






大鵬石碑

『1993年(平成5年)‐ 横綱大鵬関により田無神社五穀豊穣祭を記念した土俵が境内につくられた』
田無神社 - Wikipedia

大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町出身(出生地は樺太敷香郡敷香町、現在のロシア極東連邦管区サハリン州ポロナイスク市)の元大相撲力士。第48代横綱。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録した。昭和時代の大横綱[3]。本名は納谷 幸喜(なや こうき)、出生名はイヴァーン・ボリシコ(Иван Маркиянович Борышко)で、ウクライナ人の父親を持つ。母親の再婚により住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていた時期もあった。』
大鵬幸喜 - Wikipedia





◆煩大人神社・鹽竈神社


煩大人神社



鹽竈(しおがま)神社






◆野分初稲荷神社





◆御神木





津島神社



 津嶋神社の御社殿は、江戸神社の旧御社殿を平成三年に神田神社のご厚意によりお譲りいただき、移築したものです。江戸神社は江戸地域最古(西暦七〇二年)の創建で、元は江戸城(現在の皇居)の中に鎮座されておりました。
 移築修復の設計は松本省蔵により、向拝柱の青龍の彫刻(一本の木から柱ごと彫り込んであります) は酒場玄進とその弟子小野寺武男により、彩色は片岡鋭二によります。
 「やすらぎの場としての神社」境内整備計画は、当津嶋神社の移葉から始まり平成七年十月をもって完了いたしました。
 御奉納賜りました氏子崇敬者の御芳名は「神心の碑」の裏面に刻まれております。






◆親子石





◆子育て犬





烏骨鶏のうこちゃん

写真がうまくとれない・・・・・。
昔、烏骨鶏を飼っていたことがある。





◆舞殿





◆田無神社 銀杏御神木(金龍木)






◆弁天社





少彦名神社






黒龍






◆撫龍





◆神心の碑





裏参道





◆鳥居





場所はコチラ↓