2023/02/03 總持寺


総持寺の創建年代は不詳だが、元和年間(1615 – 1624年)、法印権大僧都栄和尚が、谷戸に法界山西光寺[注釈 1]として創建、慶安年間(1648 - 1651年)、現在地へ移転したと伝えられている。江戸時代(1603 - 1868年)、尉殿権現社(現・田無神社)の別当寺を勤めていた。明治8年(1875年)、西光寺と近隣の密蔵院[注釈 2]、観音寺の3寺が合併して創建し、田無山総持寺と改称した。
関東三十六不動尊霊場[2]の第10番札所に数えられ、多摩八十八ヶ所霊場[3]の第33番札所である。東京百景[4]にも選ばれている。
西光寺(現・総持寺)本堂は、天保11年(1840年)、築後140~150年を経たため、本堂建て替え計画が持ち上がり、西光寺の住職恵亮や田無村名主下田半兵衛が中心となり準備が進められた。嘉永3年(1850年)、本堂は完成し、普請成就供養が行われた。その落成を紀念して、境内にケヤキほか数種の樹木を植栽し、その中の一樹が境内にある大ケヤキであると言い伝えられている。 』
総持寺 (西東京市) - Wikipedia



尉殿大権現神号額

 明治元年(1868)、政府は神仏分離令によって、神社を寺院から独立させることとしました。これによって明治五年(1872)、西光寺は総持寺と改称し、西光寺のもとにあった尉殿権現社は分離して田無神社と改称しました。その際に「権現」は仏の位という理由から、江戸時代に尉殿権現社(現田無神社の拝殿に掲げられていたこの扁額は取りはずされ、同神社の別当寺にあたる西光寺(現総持寺)が引き取りました。この扁額は、現在総持寺に引き継がれ、保管されています。
 この扁額の材質は欅で、縁は花頭曲線式、 赤漆を塗装し文字は金箔押しが施されています。
 揮毫者は「東都 河保壽敬」と記されており、制作年代の記録はありませんが江戸後期(一八五一以降)と推定できます。
 田無神社が、江戸時代に尉殿大権現と号していた資料として貴重な扁額です。





総持寺のけやき





◆妙見堂


下田半兵衛富宅(しもだはんべえとみいえ)の木造

 総持寺境内妙見堂に保管されているこの木像は、田無村名主下田半兵衛富宅の像で、安政六年(1859) 富宅の生存中五十八歳の時に制作されたことが記録されています。
 半兵衛富宅は江戸時代後期、田無村名主を勤め、さまざまな功績を残しました。 「備荒貯蓄に尽力し、尾張藩のお鷹場案内役となり、御用勤勉により、ご褒美をいただき、苗字を許され、尉殿権現(現田無神社) 本殿並びに拝殿を再建し、養老畑を以って老人を助けた」と、この木像の納められている厨子の扉の裏側に漆書きしてあります。
 なかでも養老畑は、当時には珍しい名主の善政で、現代の福祉行政の先駆と見られています。





水子・子育地蔵菩薩





◆石仏群





◆大日堂





◆滝の不動尊



このみ堂にお祀りしてある滝の不動尊は明治十一年四月十三日下総国成田山新勝寺第十三世照輪僧正の開眼勧請し玉う所にして当町柳沢の宿屋田丸屋の奥庭に祠を建て安置したのである。
溝耒毎月二十八日に隣組の篤信者が中心となって多数の信徒と共に乗り念佛講をつり毎月代参をご本山成田山に送り専ら不動尊の信仰を固め数々のご霊験さいただいてまた也変り晴移って大正六年三月田丸屋から当山にご遷度になった
尚お百度参りの目標であったこの百度石は多くの信者に心の安らぎ与えて来た。





◆鐘楼堂





◆山門






高野槙(こうやまき)



秋篠宮家ご長男悠仁親王殿下のお印です。





◆参道入り口





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