2023/02/18 西東京いこいの森公園




市の木 市の花
 市の木・市の花は、西東京市誕生3周年を迎えるにあたり、 緑と自然を行政と市民が一緒になって、 守り、育て、潤いあるまちづくりを目指すためのシンボルとして、 平成16年1月21日に指定しました。
 指定にあたっては、選考委員会を設置し、2回の市民アンケートによる意見を参考にしながら検討し、決定したものです。
 市の木には、市のシンボルとして武蔵野台地の象徴とも言える「けやき」 と、これから自然を守り育てるイメージとして 「はなみずき」 を指定しています。 また花には、「つつじ」 「ひまわり」 「コスモス」 「すいせん」ど四季折々の花を指定し、自然と緑のあるまちづくりを目指すシンボルとしています。 四季それぞれの花を指定するのは、全国的にも極めて珍しいことです。





西東京市合併の由来碑

 西東京市は、平成13年1月21日に田無市保谷市が合併して誕生しました。 両市の間には、古くは明治の時代から、 何回か合併の議論がありましたが、 合併の成立までに至らず、昭和42年1月1日に田無市保谷市それぞれ単独での市制施行となりました。 しかしながら、 少子高齢化地方分権などの社会環境の変化への対応から、 改めて合併の必要性が論じられるようになり、 平成10年2月に任意の協議会(田無市保谷市合併推進協議会) を、 平成11年10月には法定の協議会 (田無市保谷市合併協議会) を設置し、合併に関わる協議・検討を重ねてきました。 平成12年7月には、事実上の住民投票ともいえる市民意向調査を実施、その後、 開催された臨時議会において、配置分合をはじめとする合併関連議案が可決されました。 そして、 平成13年 (2001年) 1月21日、全国に先駆けた都市型合併の先進市として誕生した西東京市は、全国から注目を集めるとともに、新市としてのまちづくりにおいても先駆的な役割を担っています。 西東京市は 「やさしさとふれあいの西東京に暮らし、まちを楽しむ」 を基本理念としたまちづくりに取り組んでいます。

保谷市の概要
(1) 地勢
 保谷市は、東京都の西北部に位置し、北は埼玉県新座市、南は武蔵野市、東は練馬区、西は田無市及び東久留米市に接し、 東西2km、 南北に4.5kmにわたり 面積 9.05km² を有し、西から東になだらかに傾斜したほぼ平坦な地域です。
 地質は、関東ローム層 (主として関東地方に分布する褐色の土で 砂と粘土から成って空隙に富み、 有機物を多量に含んで植物の育成に適する) で、厚さ10m以上のところが多く、 その下は経3~5cmの礫層で、地下水位は河川沿岸の低地に見られるくらいです。

(2) 歴史
 明治22年、上保谷、上保谷新田、下保谷の3ヶ村が合併し、 保谷村となり、現在とほぼ同じ区画をもつ農村として位置づけられ、昭和15年11月10日に人口10,052人で町制を施行しました。 同20年から都営住宅の建設が始まり人口は徐々に増加しました。
 その後、 日本住宅公団 (現 都市再生機構) によって昭和33年柳沢、 東伏見団地、 翌34年にはひばりが丘団地が建設されたことにより、人口は急激に増加し、同35年1月1日には 43,678人となりました。
 その後も民間の宅地造成が行われ、 昭和42年1月1日に人口77,169人で市制が施行され、 かつての農村地域であった保谷市は、 住宅都市として定着しました。 しかし、昭和46年以降、人口の増加は鈍化傾向を示し、 平成10年1月1日の人口は99,973人です。

保谷市保谷町ー上保谷村・上保谷新田・下保谷
明治2年(1869) 品川県設置、 保谷三村これに属す
・明治5年(1872) 入間県に属す
明治6年(1873) 熊谷県に属す
明治9年(1876) 埼玉県に属す
明治22年(1889) 上保谷村、上保谷新田、下保谷村が合併し、 保谷村となる
明治40年(1907) 東京府編入
昭和15年 (1940) 町制を施行し保谷町となる
・昭和42年(1967) 市制を施行し保谷市となる

田無市の概要
(1) 地勢
 田無市は、 武蔵野台地のほぼ中央にあって、南は保谷市武蔵野市 小金井市、 北及び東は保谷市、西は小平市東久留米市に接し、東西に2.9km、南北に3.7kmとやや南北に長く、 面積 6.8km² を有し、東部から西部にかけ
て東に傾斜し、石神井川を谷底にして南北は段丘状になっており、しばしば扇の半開き形とか広葉樹の葉にたとえられています。
 地質は、 透水性の大きい砂礫層と関東ローム層 (武蔵野ローム層)からなっています。

(2) 歴史
 田無は江戸時代青梅街道の宿場町、 そして北多摩地区の人々の生活を支える商業の拠点として栄えてきた、 古い歴史を誇るまちです。 昭和に入ってから、鉄道の開通、 相次ぐ工場の進出などにより活気を帯び、 また新宿まで西武新宿線で20分と交通の便にも恵まれ、戦後は公団住宅や都営住宅 、 民間住宅の建設が盛んに行われました。
 都市としての条件が整った昭和42年 1月1日に市制施行、 東京で16番目全国で563番目の市となりました。 当時の人口は約 52,000人でしたが、平成10年1月1日の人口は76,880人となっています。

田無市ー田無町ー田無村
明治元年 (1868) 韮山県の管轄になる
・明治 2年 (1869) 品川県編入
・明治 5年 (1872) 神奈川県に編入
明治11年(1878) 郡区町村編成法が施行され、 北多摩郡に属す
明治12年(1879) 町制を施行し田無町となる
明治26年(1893) 東京府編入
・昭和42年(1967) 市制を施行し田無市となる





原子核研究所址



 ここ田無の地は、東京大學原子核研究所、通称核研、が1955年7月から1997年3月までの四十三年間にわたり、我が国の原子核物理学の発展に尽くした記念すべき場所である。核研は、戦後における我が国の学術・文化復興の突破口として全国研究者の総意のもとに、基礎的、先端的な科学分野である原予核・素粒子宇宙線の研究を目的とした、すべての研究者に開かれた全国共同利用研究所として創設された全国大學を縦断し、研究分野を横断し、研究者が自主的に研究を行なうという核研の革新的な研究体制は、自由闊達な研究環境を生み出し、設立の理念の一つであった人事交流と研究者育成もこれを背景に理想的に行われた。またこの魅力的な研究環境と、世界最先端の性能をもつ巨大加速器サイクロトロンとシンクロトロンが建設されたことにより、全国から夢溢れる若い研究者が寄り集い、真理探究の情熱に燃え滾る坩堝の中から次々と優れた研究成果が生まれ、核研(INS)の名は一躍世界に知れ渡った。そしてこの核研で育った研究者は現在、我が国のみならず世界各地で活躍している。
 核研は、原子核各分野の学問の著しい進展に伴い、新たに計画された研究所の実現に精力的に取り組み、その中から高エネルギー物理学研究所、宇宙線研究所、阪大核物理学センター、東大物性研放射光施設等が次々と誕の成功は我が国の科学研究の規範としての役割を果し、他学術分野の研究体制の発展に大きな貢献をした。
 このように戦後の基礎科学の復興と近代化に果した核研の功績は大きく、その名は我が国近代科学史に燦然と輝いている。 この度、核研の恩顧を享けた者達が集い、苔むす石に託してその名が後世に伝え継がれんことを祈念し、ここ巨大科学発祥の地に核研の址碑を建立した。





◆稗蔵’(ひえぐら)



 稗倉は飢饉にそなえる村の備蓄倉庫で、 長期保存にたえる稗を保管しました。江戸時代は天候不順による飢饉がたびたび起こり、 なかでも享保天明天保の大飢饉が有名です。
 天保9年(1838) 田無村の名主半兵衛 (富永) は、自費で五百石 (90m²)入りの穀櫃(こくびつ)を屋敷内に新築し、有力農民40人の出資した金百両を基金に、その利子で貯穀する仕法を始めます。 この稗倉は村全体の食料90日分を備蓄できる、高さ・奥行きとも 2.0m 間口 27mに及ぶ長大なもので、 十二支の標札をもつ12室に分かれていました。 外壁の構造は、 厚い板を上から落とし込み、 晴雨により板が伸縮して湿度を調節する板倉造りです。 年々一室づつ新穀に詰め替え、 古穀は村内の困窮者へ配分されました。
 この田無村稗倉は文久3年(1863) に建て替えられ、明治6年(1873)には用済みとなり、 分割され希望者に払い下げられました。 現在、 七室分が田無町、 谷戸町、 小平市の3か所で保存されています。 これらの実測にもとづき、礎石を配置してみました。




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