2024/03/09 旧村川別荘


『村川は1911年に雑司ヶ谷(文京区目白台)に本邸を建てて住み、その後2か所の別荘に3軒の家を建てた。衣食住のうち「住」に重きを置いたといい、それらは残っている[2]。
文京区目白台にある1911年(明治44年)築の自宅(主屋・洋館)は、1920年大正9年)築の蔵を含め「村川家住宅」として国登録有形文化財[3][4][5]。1926年(昭和元年)に自ら設計し建築された別荘は千葉県我孫子市寿にあり「旧村川堅固別荘」として千葉県の近代産業遺跡となっている。 』
村川堅固 - Wikipedia







◆旧村川別荘「南門」



 旧村川別荘は、村川堅固(東京帝国大学教授、西洋古代史)が大正六(1917)年に設けた別荘です。堅固は、旧制第五高等中学校(熊本)在学中に校長であっ嘉納治五郎(かのうじごろう)(教育者・講道館創設者)と親交を結びました。嘉納は我孫子に別荘を設けており、堅固がここに別荘を設けるきっかけになったといわれています。
 大正一〇(1921)年には、我孫子宿本陣にあった離れを移築・一部改装し、母屋としました。また昭和二(1927)年には、朝鮮半島での古蹟調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。 新館は大正一二(1933)年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。 沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、 寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴的です。
 堅固は昭和二(1946)年に亡くなりましたが、別荘は息子の村川堅太郎(東京大学教授、西洋古代史)に受け継がれ、ここで世界的視野をもつ多くの著作が生み出され、学生たちが指導を受けました。 平成三(1991年の堅太郎没後、別荘は国に物納されましたが、自然環境を残し、別荘地として開けた我孫子をしのぶものとして文化財価値が極めて高いことから、平成一三(2001)年に我孫子市が購入して保存、平成一九(2007)年には市指定文化財となりました。








◆旧村川別荘「竹林」








◆旧村川別荘「沼見のベンチ」



今から百年前の我孫子と旧村川別荘
 旧村川別荘は、標高20mの丘の上から4mの崖下まで起伏に富んだ土地2,981.42㎡ (約903坪) を敷地としています。 別荘建物は丘の中腹に平場を作って建てられ、崖下にはわずかに湧水も認められます。 湧水はかつては流量が豊富で池になっており、あふれた水が手賀沼に流れていました。 現在の邸内には、ケヤキクスノキ、 スギ、サワラなどの樹木が目立ちますが、 別荘が数多く設けられた大正から昭和初期には、一面にマツ林が広がっていた様子が地図や写真類に記録されています。
 村川堅固の長男、 村川堅太郎 (東京大学教授 西洋古代史)は大正7(1918)年、10歳のころの日記にこう記しています。「家で買った地面を見に行った。 一帯この地には松が多くて僕の家で買った地面にも大きな松が三十二本ある。 家の地面は実に眺めのよいところで前が低くなっており下には清水が少しずつわいている。 その下は田地でその向こうに葦が生え沼になっているのである。 左手は子の神境内で大きな松がたくさん湖面にさしかかっている。 お父様 (村川堅固) や綿貫さん (綿貫哲雄=嘉納治五郎の娘婿、 社会学者)は 『あの松に月でもかかったら実に良い景色ですなあ、 歌でもできそうですな』 『なるほど」 などと言っていらっしゃった」松が生え揃った先に広がる手賀沼、はるかに望む富士山をもとめて、多くの文人墨客が我孫子を訪れました。 今もなお、 住宅街のそこここにその面影を偲ぶことができます。








◆旧村川別荘「母屋」








◆旧村川別荘「新館」





旧村川別荘
 旧村川別荘は村川堅固氏と子息の堅太郎氏が別荘として利用していた場所です。1917年(大正六) 堅固氏が当地の土地を購入し、1921年(大正一〇)同地に旧我孫子宿本陣邸内にあった離れ家を購入、移築しました。現在の母屋です。当初は茅葺き屋根でしたが現在は瓦葺きに変わっています。1925年(大正一四)に堅固氏が朝鮮旅行をした時の印象をもとにしてデザインした、ユニークな外観の銅板葺き屋根とモザイク床の建物を建設しました。現在の新館です。
 手賀沼を一望する景勝地として知られた子の神(現延寿院) 境内に隣接していて、樹木が豊かで湧水の痕跡もあり、水と緑が豊かだった昔の我孫子の景観をよく残し
ています。

<略歴>
村川堅固 むらかわけんご 1875~1946
 1898東京帝大文科大学史学科卒。1903~06ヨーロッパ留学。1906東京帝大助教授。1912教授。1935名誉教授。西洋史専攻。
 主な著書 西洋上古史、希臘史、世界改造の史的観察、米国と世界大戦。

村川堅太郎 むらかわけんたろう 1907~1991
 1930東京帝大西洋史学科卒。1940東京帝大助教授。1947教授。1963東京大名誉教授。
 主な著書 地中海からの手紙、ギリシアとローマ、オリンピア、古典古代の市民たち、村川堅太郎古代史論集。



 旧村川別荘 建物の歴史と特徴 村川堅固は 「住食衣主義を提唱す」 という論文を書くほど住まいにこだわった。 大正6 (1917) 年、 現在の旧村川別荘の土地を購入し、 大正10(1921)年、 旧我孫子宿本陣より離れ屋を購入し、 解体部材を活用して現在の「母屋」を建築。書院床脇にガラスの明かり取り窓を採用するなど新しい要素を加えている。 昭和2(1927)年から翌年にかけて建築した「新館」 は、外観は寺社建築を思わせるような立派な破風(はふ)と扇垂木(おうぎだるき)、銅板葺きの大屋根と、意匠に凝り、「朝鮮風」とも呼ばれる。沼への眺望を意識した大きなガラス出窓を配する。 傾斜地に鉄筋コンクリート基礎を据え付け、竹を貼り込んで外観を整えている。 室内は洋風の寄木モザイク床ながら●●天井、竿縁(さおぶち)天井、床の間、ねずみ漆喰の壁を採用し、和洋折衷●●ある。

●は判読不能だった・・・。



和洋折衷式建物と村川堅固
新館は昭和2(1927)年から翌年にかけて作られ、和風とも東洋風とも言える内外観に、洋風の要素を巧みに取り込んだ和洋折衷式の建物です。 大正から昭和の知識人は西洋と東洋、日本との間で新たな価値を創造しようと試行錯誤していました。その一人である村川堅固は西洋古代史の研究者ですが、日米交流史の研究も行っていました。 和洋折衷式のこの建物は村川堅固の思想を象徴するものとして興味深い存在です。



村川堅固 別荘を建てた西洋史学者
 明治8 (1875)年、熊本生まれ。 五高等中学校(熊本)を経て、東京帝国大学文科大学史学科卒。3年間のヨーロッパ
洋行(留学)ののち東京帝国大学教授 (西洋史学) となり、 我が国における西洋古代史研究の確立に尽力。 主著『西洋上古史』(西洋通史)、 『希臘史』 (ギリシャ通史)。 昭和21 (1946)年、逝去。
 第五高等中学校校長であった嘉納治五郎を師と仰ぎ、 嘉納が我孫子に別荘 (我孫子市緑1丁目)を有していたため、 ここに別荘を持ったと考えられる。 我孫子に別荘・居宅を設けたジャーナリスト杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)とも親交を結び、 手賀沼の景観保全を図るための「手賀沼保勝会」を結成した。

村川堅太郎 別荘を受継いだ西洋史学者
 明治40(1907)年、 東京生まれ。 第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。 東京帝国大学教授 (西洋史学)となり、 我が国における西洋古代史研究の発展に寄与。日本学士院会員。 主な論文は 『村川堅太郎古代史論集』に収録。戦後のヨーロッパ留学の随想をまとめた 『地中海からの手紙』 (昭和34年)は第7回日本エッセイストクラブ賞を受賞。 山川出版社 「高校世界史教科書」の執筆者の一人としても知られる。平成3(1991)年、 逝去。



窓ガラスについて
母屋新館とも窓ガラスには気泡が入り、厚みが一定でなく、でこぼことしています。 これは明治~昭和初期まで使用された「コルバーン法」 という板ガラス製作技法によるものと考えられます。 ゆがみが生み出す独特な光を浴びながら、 村川堅固はどのような気持ちで足下に広がる手賀沼の景色を眺めていたのでしょうか。



村川堅固・ 堅太郎の交友
 堅固が第五高等学校に入学した頃、 校長として赴任したのが嘉納治五郎 (教育者柔道の「講道館」の創設者) でした。 嘉納には五高の道場で 「巴投げ」を習ったという逸話があり、 大学卒業後は一時期秘書をつとめるなど終生変わらぬ師弟関係を結びました。堅固が我孫子に別荘を設けたのも、 納が我孫子に別荘 (緑1丁目、 アビスタ北側の上)を持ったためと考えられます。は、東京から1時間ほどで美しい手賀沼に臨むを時折訪れては、多忙な研究生活の息を抜き、 趣味の釣りに打ち込みます。 昭和初期に起こった「手賀沼干拓計画」 に対しては、我孫子に住む国際的ジャーナリスト杉村楚人冠嘉納治五郎とともに「手賀沼保勝会」 を作り、環境保全を訴えました。 また堅太郎は我孫子ゴルフ倶楽部でのプレーを楽しみとし、 我孫子在住の郷土家 小熊勝夫 (故人、 旧我孫子宿名主邸所有者) や東京大学教授で東洋史学者、 西嶋定生 (故人、 白山に居住) と親交を結びました。



小さな考古学者 村川堅太郎・正二
 村川堅固の長男 村川堅太郎と次男 村川正二は、大正11(1922)年、 別荘母屋の工事現場を家族とともに訪れ、その様子を小学生であった正二が作文で書いている。
 「汽車に乗って我孫子に行つた。 汽車からおりてにいさん (堅太郎)とねいさんと僕 (正二) だけかひづか (貝塚) と言ふ所に行つて千年いじゃうも前のやきものなどもひろつた」
 かれらが土器を拾った貝塚とは、 我孫子駅南東側にかつて存在した「大光寺貝塚(だいこうじかいづか)」 と考えられる。 大光家は、日本における人類学、 考古学 民俗学の始祖とされるTA 大学教授 坪井正五郎が、 明治30 (1897)年に刊行した「日本石器時代人民遺物発見地名」に「我孫子町大字我孫子大光寺貝塚」と記載され、同32年には坪井が現地を視察し、 「黒土一尺程下には貝殻がギッシリと詰まっている」ことを確認している (『東京人類学会社』 14)。
 村川家には、出土場所の記録はないか、 縄文土器、 埴輪(はにわ)が所蔵されており、 縄文土器我孫子縄文時代中期から後晩期にかけての特徴を示す。 また、 埴輪も千葉県北西部から茨城県南部に分布する 「下総型埴輪」 と呼ばれる特徴を示し 別周辺に展開する子の神古墳群からも下総型埴輪が出土している。
 村川家の縄文土器と埴輪は、 東京の本宅と別荘との往来の合間に堅太郎と正二が旧村川別荘周辺で採取した可能性もあり、今後、市内の出土遺物と比較研究を可能とする貴重な資料である。


一月七日
今日は僕はお父様と一緒に我孫子町へ行く事であつた。それでよ定通り十一時上野發の列車にのり我孫子町へ行った。町へ着くとすぐに綿貫家をおとづれた。綿貫家からは前に手賀沼が見えて実によい景色である。 そこで昼飯をいただいてそれから家で買つ地面を見に行った。 一たい此の地には松が多くて僕の家で買った地面にも大きな松が三二本ある。 小さなのは四五本ある。 家の地面は実に眺めの好い所で前が低くなつて居て坂にはし水が少づつわいて居る所がある。それからしたは外の人の地面でそこは田地になつて居る。 それで其の向があしがはへて居それからが沼になつて居るのである。 それでそこからは手賀沼はよくみえる。左手は根の神の境内になつて居て大きな松が澤山湖面に差かかつて居る。お父様や綿貫さんは『あの松に月でもかかったら實によい景色ですなあ。 歌でも出来さうですな』『成程』などと言って居らつしやつた。 根の神境内には櫻もあるから春の桜の頃もよいと思った。 それから歸つて来て町のはくせい屋にいつてりすのはくせいを一つ買って闘った。
(文ママ)
(大正六年、村川堅太郎 小四)
※綿貫家とは嘉納治五郎の娘婿で我孫子に住居をもっていた社会学者 綿貫哲雄のこと。堅固の友人でもある。

昨日の一日 村川正二
昨日は八時四十五分の汽車で我孫子に行くことにした。お父さんはおとといから行って居らっしゃった。おばあさんとおかあさんとにいさんとねえさんと僕で行ったのだ。
七時十五分ごろ家を出て大塚から電車にのつて廣小路でおりててい車場に行った。
汽車に乗って我孫子にいった。
汽車からおりてにいさんとねえさんと僕だけかひづかと言ふ所に行って千年いじやうも前のやきものなどもひろつた。
だいぶひろつたので家にいつておひるごはんをたべた。
おなかがすいて居たのでづいぶんおいしかった。それから山に行ってきれいなすみれやたんぽぽをとつて来た。それからおかあさんとねえさんとにいさんと僕で船をぬまにうかべてのつてあそんだ。
兄さんがこいでくださった。 ぬまにむかふぎしのもりややまがうつつてきれいだった。ほかの舟の人がぬまにおつこちた。舟をやめて家に行った。
お父さんのかんがへで我孫子にべつさうをたてることにした。まだちっとも出来てないが大工がきてしごとをして居た。それを見たりしてからお父さんと兄さんと僕とでつりにいった。
つりざをが二本なのでお父さんが一本つかつてその一本は僕と兄さんとかはりばんこにつかつた。お父さんが二匹つつて兄さんも三匹つつた。
僕は二匹つつた。みんなで八匹つつた。うちに行つてかへるしたくをして六時五分の汽車にのつて東京の家にかへつた。家にかへつたのがちやうど九時すぎだった。
(大正十一年、村川正二=堅太郎弟 小四)


村川堅固の著作
 村川堅固は、東京帝国大学教授として西洋史の論文や教科書の執筆を行っただけでなく、 一般向けの本にも多くの文章を寄せている。
【『西洋歴史物語』 (昭和5年)】
 児童向けの百科事典的文庫本で、 各巻に一流の学者たちが執筆参加していた。 装丁も凝っており美しい。
【『学生』】(大正5年、 冨山房)
 大正から昭和初期、 立身出世を願って旧制中学や高等学校入学を夢見る若者や学生たちに、 勉学と人生の指針を教える 『青年雑誌』が流行していたが、 その一つ 『学生』 に、 「猫のミイラ牛のミイラ」という記事を書いている。 自宅の西洋館にはピラミッドとナイル川のステンドグラスをはめ込んでいることからも、 村川の関心の深さが分かる。
【『柔道』】 (大正6年、 柔道会本部)
 村川の師、 嘉納治五郎が主宰する雑誌 『柔道 』 には 「学生の勉学精神について」 という文章を寄稿し、 「受験のための勉強でなく、自分の実力養成のために勉強することが大切である。 それは将来の自分や国家のためにも必要である」 と説いている。
【 『大勢』 】 (大正11年講道館文化会)
 嘉納が主催する雑誌 『大勢』 には 「住食衣主義を提唱す」 という一文を寄せ、 「日本の住宅事情の貧困さが国民の生命財産を損ねている。一方、ヨーロッパでは住宅費用をかけずに建築するようになっている。日本でも住宅を重視し、余計な支出を抑えれば、 住みよい住宅を作ることができる」 と説く。 大正 11 年は、ちょうど旧村川別荘母屋を作り終えた時期で、 村川堅固はその頃、住まいをめぐることで頭がいっぱいだったのだろう。



日本の住居は衛生面、生活の安全面からみて非常に貧弱である。「衣食住」というが、「衣食」に比べて「住」があまりに軽視されていると思う。なぜそうなのか?第一に、虚栄心から「衣」に執着したり、嗜好に任せて飲食することにお金を使ってしまう人が多く、住宅環境の改善にまで手が回らないのである。 次に、「衣食」にかかる費用は「住」に比べて少額で済むため、住宅の改善をあきらめて貧弱な住宅に甘んじるのである。今日の文明国での住宅政策では、個人が巨額の費用を投じなくても理想的な住宅を建てることが可能となっている。しかし、いくら賢明な住宅政策を立案しても、国民が衣食偏重では貧弱な住宅を改善することができないであろう。また、隣近所に対して、無遠慮に防火や排水が不完全な家を建てることがまかり通っていることは理解できない。国民が衣食にかかる費用を節約し、住宅に重きをおくようになれば、浮いた費用で公債を購入し、都市問題を改善することができるであろう。このことから私は旧弊を改めるためにも「住食衣主義」を提唱するのである。
(『大勢』第一巻第四号 大正十一年)








◆旧村川別荘「北門」



旧村川別荘
 旧村川別荘は東京帝国大学教授村川堅固 (西洋史学、 『希臘史』 『西洋上古史』 など著作多数)が大正6(1917) 年に購入した別荘です。 堅固は旧制第五高等学校 (熊本) 在学中に校長であった嘉納治五郎(教育者講道館創設者) と親交を結びました。 嘉納は明治44(1911) 年、 我孫子に別荘を設けており、 堅固が別荘を設けるきっかけになったといわれています。 大正10 (1921) 年には我孫子宿本陣にあった離れを移築 一部改装し、 母屋としました(もと茅葺)。 江戸時代後期我孫子宿の建築物をしのぶ資料として貴重です。 また堅固は大正14 (1925) 年に東京帝国大学平壌で行った朝鮮古蹟調査 (石巌里205号墳発掘調査) に随行し、その際に見た建物の印象を元にデザインした新館を昭和2(1927)年に建てました。 新館は大正12(1923) 年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、 銅板葺きとしています。 また沼を見下ろす南側には展望を意識してガラス窓を広く取り、 床には寄木モザイクを配したモダンな作りとなっています。 堅固は趣味の釣りを通じて我孫子の景観を愛し、 昭和初期の手賀沼干拓計画に対し我孫子在住のジャーナリスト杉村楚人冠嘉納治五郎らと共に環境保全を訴えました。 堅固は昭和21(1946) 年に亡くなりましたが、 別荘は息子の村川堅太郎 (東京大学教授、 西洋史学、 「地中海からの手紙』 『古典古代游記』、 高校世界史教科書など著作多数) に受け継がれ、ここで世界的視野をもつ多くの著作が生み出され、学生たちが指導を受けました。 平成3(1991)年の堅太郎没後、 別荘は国に物納されましたが、 自然環境を残し、 別荘地として開けた我孫子をしのぶ施設として文化財価値が極めて高いことから、 平成13(2001)年に我孫子市が購入して保存しています。








HPはコチラ
旧村川別荘:我孫子市公式ウェブサイト




開館日
火曜日から日曜日 9時から16時まで(月曜日はお休みです) ※年末年始は休館します。
とありますが、行かれる方はHPなどチェックしてから行ってくださいネ!




場所はコチラ