前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/09/08/183000
羽村市は明治の中頃から、日本一と自慢するほど養蚕が盛んで、 七つもの製糸工場
組合製糸工場「西玉社」は昭和六年(1931) に設立され、従業員約百名。 糸繰工場、 寄宿舎、二本の大きな煙突、 その他の施設があり、製品の生糸は横浜へ出荷されていました。
太平洋戦争が激しくなると、 養蚕は衰え、 西玉社も軍需工場 (兵器生産) に変わりました。 戦後、 校舎に改造して西多摩中学校となり、 その後、 羽村西小学校となりました。
『新編武蔵風土記稿』 (江戸時代後期の地誌) には、 吉祥寺について次のように書かれています。 「境内は免税地で八間(約14.5m) に十一間 (約20m) の広さで山王山吉祥寺といい、 一峰院の末寺。 客殿は六間 (約11m)に三間(約5.5m) で東向き。 二間四方の十王堂が客殿の前にあり、 本尊は釈迦立身木像で近来住職がいない。」また一峰院の記録によれば、文化11年(1814) 火災で焼失したため、地元で管理していたのを嘉永7年(1854)から一峰院に移したとされます。 現在は個人所有地ですが、 この付近からは平安初期の土師器破片や、 中世の板碑も出土しており、 阿蘇神社、 一峰院と共に羽村文化の中心地であったともいえます。
◆阿蘇神社
別のページで。
2024/09/08 阿蘇神社 - ovanの社会科見学