明治維新の大業を遂げたわが国は西南の役の昔より 日清日露の両戦役を経て国運念々進展し勢の赴く 所遂に大平洋戦争に 突入した。この累次の戦役に数多くの尊い生命が国に捧げられたのであるが わが郷土に於いても出て帰らぬ殉国の士は実に三百有余に及ぶ。
この尊い霊を祀り且つ 慰むらに霊峰富巌を仰ぎ瀼いとして盡くることなき多摩の清流に臨み家郷を俯瞰するこの浄地を撰んで霊域となし、こヽに忠霊塔を建 設する。 願わくは時代の変遷止む所なしと雖も英霊とこしなにこの地に鎮まり 給ひ、世界の恒久平和と人類理想具現の指標たらんこ とを
◆句碑
判読できなかった・・・・。
WEBで調べても情報が無かった。
硬く重く冷たい石のイメージに対して柔らかく軽く温かく表現することによって 石彫の可能性を追求してきました
風の舞Ⅰは左下から右上に吹き上げる風の様態をイメージして人々の向上心と活力 そして福生市の発展を表現しました
作者名 遠藤 洪平六
人の和(球体)のフォルムの中をさわやかな薫風がふきぬけるイメー視点を変えると形が消えていく時間性のある作品
作者名 中沢 潮
清戸道の道標
清戸道の道標は、江戸に向かう江戸街道(五日市街道)と、清戸(現清瀬市)に向かう清戸道との分岐点に建てられていた道標(みちしるべ)です。 建てられた年代は不詳ですが、「右 江戸 左 きよ戸」と記されていることから江戸時代に造立されたと考えられます。
清戸道は、戦国時代に成立した古道であるという伝承がありますが、分岐点から八高線までの区間は、昭和二十四年(1949)に終了した志茂地区区画整理事業や戦後の開発により、現在はみられなくなっています。
この道標は、当初の位置からは動いていますが、清戸道の存在を今に伝える貴重な資料であり、また戦国時代から近代にかけての福生の地域社会考える上で重要な文化財です。
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