由緒
旧称は阿蘇大明神ズ、長渕郷総社龍水山 阿蘇官と称した。創建は推古天皇九年(601) と伝える.領主、武家の崇敬が厚く承平三年 (933)平将門が社殿を造営した。
以後藤原 の秀郷,三田柿部助定重もまた社殿を造営、 小田原の北条氏は二十貫文の神領を、徳川家康 は二丁四方の馬場を寄進、神馬を放牧した。
徳川家光は十三石の朱印領を寄進し、代々家 例とした.慶応四年朱印状を奉還,神領を上知した。
明治政府より通録金五十円を下賜 明治二年阿蘇神社と改称当社は,和漢三才 図絵」「国花萬葉記」「武蔵国全図」の名所 案内記に「阿蘇明神在羽村社領二十四石」と 見え当地方の古社である。
御社殿新築記念碑
阿蘇神社の歴史は極めて古く、椎吉天皇九年五月の創 始と伝えられます。当初は古代の条祀形態である磐境形 式であったと考えられ、平安時代に至り、天産年中。平 将門公が神徳を異敬して 初めて社社殿を造営寄進しまし た。現在の本殿は造営史上八度目のもので、延宝四年三 月竣工し、江戸時代初期の特徴をよく備えた学術上貴重 な社独建築として昭和四十一年三月,東京都指定有形 文化財に指定されました。
然し、三百有余年の星霜を経て腐朽が進在拝殿等も 老朽且つ狭少となり参拝者の増大に対応し得なくなりま した。よって、氏子崇敬者相議り、神社百年の大計の元 に、本殿修理工事及び新本殿、祝詞殿、拝殿新築工事を 起こすこととなりました。羽村町を通じて東京都に修理の要請を致しましたところ、破損調査の結果、昭和六十 一年度文化財保存事業費対象事業の決定が下されました。東京都指定有形文化財、向蘇神社本殿修理委員会が組織され昭和六十一年度東京都文化财保存市業费補助金, 昭和六十一年度羽村町補助金の交付を受け、所有者負担金を加えて、昭和六十一年五月着工致しました。工事は 早稲田大学教授工学博士渡辺保忠先生外一門の先生方の 監督指導のもと(株)大門組施工により一ヶ年の工期をもっ て解体修理を行い、学術上多大の成果を収め、江戸時代初期造営当時の原形に復元しました。
又、新社教建設工事は、阿蘇神社建設委員会を結成し 氏子崇敬者より浄財を募り、竹洋古典建築設計事務所の設計に従い、(株)金剛組が施工しました。昭和六十一年 五月二十六日、本造始祭を斎行し、事始めてより飛騨の工 匠の打つ黒縄の只一筋に 清く美しく竣工し、昭和六十 三年十三月十九日净暗のうちに正遷座祭を、翌二十日奉祝祭を奉任し、本事業を滞りなく完了しました。天空に 聳える訴える千木、勝男木 の朝日に照り映える如く御稜成の 弥益々に輝き渡り、氏子崇敬者に限りなき幸をお授け下 さることと信じます。ここに関係各位の敬神の真心に敬意と感謝の意を表し、御芳名を永久に伝えたいと存し、この碑を建立するものであります。
阿蘇神社は多摩川左岸の崖上に鎮座する旧村社です。社記によれば推古天皇九年(601)の創建と伝えられています。その後承平年間(931~938)平将門が造営し、藤原秀郷も造営したといわれています。現存する天文五年(1536)の棟札によれば、勝沼(現・青梅市)に本拠を置いた三田定重が七回目の改修を行ったことが銘記されています。また、現在の本殿は、昭和六一年(1986)の解体修理の結果発見された蟇股及び柱下の墨書から、棟札にもある延宝四年(1678)の再建であったことが判明しています。本殿の構造及び形式は、軸部柱真々正面四尺八寸(1.45m)、側面四尺三寸(1.3m)、一間社流造、杮葺、大棟は箱根、鬼瓦付、正面及び左右両側は切目縁付、はね高欄の向拝付、脇障子止、軸部欅材、丸柱、周囲地長押、頭貫、木鼻付、正面弊軸構、小脇坂、両間板戸、側面及び背面板壁、正面木階五級、上り高欄、宝珠柱付浜縁の造りです。この本殿は建築年代の明らかな江戸時代初期の神社建築として貴重なものです。現在は覆屋の社殿内に鎮座しています。
阿蘇神社神輿
この神輿は、造りが近代の神輿と少し異なっていて、中心に心柱がなく、四方の円柱を箱台の下面まで貫き通し、楔(くさび)で締めています。 これは貴人の乗物としての形を残した古い様式で、中世神輿の形を備えているといわれています。 全体の形や装飾が優美で、特に鳳凰や瓔珞 (四面に垂れる飾り)をはじめ金具のデザインや細エが非常に優れています。 また、 この神輿の寸法などを書いた木割帳が現存し、本体とともに神輿研究上重要なものと言われています。
建造は文化15年 (1818) 宮大工小林藤馬 (播磨) が、宮造りの技法をとり入れて製作したもので、屋根内部の束や箱台の表面に、 明細な墨書の記録があって、 作者や製作年代が確認できます。
江戸・東京の農業 養蚕の村・ 羽村
養蚕が我が国に伝えられたのは弥生時代前期頃といわれ、中国説と韓国説などがあります。
武蔵国と呼ばれたこの地方では、8世紀初頭に養蚕と機織りが行なわれていましたが、盛んになったのは江戸時代になってからで、その頃の養蚕は主に女性の仕事でした。
安政6年(1859) 横浜開港に伴う輸出額のうち生糸蚕卵・繭が8割を占めたといわれています。 蚕糸業が国策産業として推奨され、その後世紀以上にわたって主要貿易品目として日本の近代化に貢献してきました。
水田に恵まれない多摩地方では、繭生産は貴重な現金収入で、 明治33年(1900) 東京は全国8位の主要養蚕地帯となりました。
羽村市では、明治に入り指田茂十郎、下田伊左衛門等の献身的な努力もあって養蚕先進地となり、大正8年には養蚕農家346戸、桑畑が340ヘクタールと全耕地の70%を占め、当時一戸当たりの収繭量日本一を自負したといわれるくらい「全村これ蚕に明け、蚕に暮れる日々が続いた」と記録されています。
◆阿蘇神社のシイ
東京都指定天然記念物 阿蘇神社のシイ
多摩川の左岸崖上にある阿蘇神社は、社記によると推古天皇九年(501)の創建と伝えられる古い神社です。
天然記念物のシイは、その神社社殿西側の多摩川沿いの石積みで作られた高さ十数mの崖の上にあります。
樹高18,0m、幹周り6.2m(平成七年調べ)で、姥ヶ淵と呼ばれる多摩川畔に大きく懸崖している大枝が特徴の老樹です。
平将門を討った藤原秀郷が天慶三年(940)に社殿を造営したときに手植えしたという言い伝えがあります。
◆境内社
◆臼井家の志
阿蘇神社敷地の外にあった。
文字化を断念。
阿蘇神社に関係するようだ。
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