『1629年(寛永6年)、のちに砂川村となる地域の開拓に伴い、その鎮守として瑞穂町の阿豆佐味天神社を勧請して建立され、1738年(元文3年)に本殿が造営された[2][6]。これは2019年現在、市内最古の木造建築物とされている。1862年(文久2年)に拝殿が建設された。
1959年(昭和34年)に殉国慰霊碑が建設された[2]。その後、1961年(昭和36年)水天宮社を吸収合併し、境内社とした[2]。1970年(昭和45年)には本殿が立川市有形文化財に指定されている。
1950年代の砂川闘争では、住民や学生らの米軍基地拡張反対運動の拠点として使用された。 』
砂川は、江戸時代初期に新田開発で拓かれたところで、阿豆佐味天神社は、寛永六年(1629)頃、村山郷殿ヶ谷(現瑞穂町)の延喜式内社阿豆佐味天神社より勧請されました。爾来砂川の鎮守として発展を見守ってきました。
御祭神は、医薬・健康・知恵の神さまの少彦名命と、文学・芸術の神さまの天児屋根命のお二柱です。
本殿は元文三年(1738)頃の建築と考えられており、昭和四五年(1970) 立川市有形文化財に指定、立川市内最古の木造建築物です。様式は、「一間社流造正面軒破風付こけら葺」といいます。
現在は、拝殿後方の白い覆殿に収められています。拝殿は天保十年(1839)に着工し、文久二年(1862)に竣工、総けやき造りで、近郷まれにみる豪壮な建物と云われています。
阿豆佐味天神社本殿
阿豆佐味天神社は 寛永六年(1629)頃現瑞穂町大字殿ヶ谷の本宮(延喜式内社)され、以来砂川村の鎮守と信仰さてきました。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)です。
この本殿は、棟札により宝永五年(1708)に再建されたものと考えら、立川市内の木造建築物としては最古のものです。
建築様式は 一間社流造で 正面は破風付 屋根は千鳥破風こけら葺きです。
昭和五十五年(1980)に改修が行われ、本殿は後方の高い基壇上に移され覆殿に納められました。 平成三十年より御鎮座三百九十年を記念して木部の補修と彩色塗装が行われました。
◆蚕影神社/八雲神社/疱瘡社/稲荷社/天神社/御嶽神社/浅間神社/金刀比羅神社/八坂大神社
蚕影神社(養蚕の神、猫返し神社)
八雲神社(厄除け)
疱瘡社(疫病除け、縁結び)
稲荷社(五穀豊穣、招福財福)
天神社(学問)
御嶽神社 (火難盗難除け)
浅間神社(縁結び)
金刀比羅神社(交通安全)
八坂大神社(疫病除け)
いろいろな神様がいらっしゃいますゆっくりとおまいりください
蚕景神社跡
蚕影神社は、養蚕の守り神とし蚕の守り神として、常陸国豊浦湊(茨城県つくば市)から、安政七年(1860)二月に勧請された、阿豆佐味天神社の本社です。
この砂川地区では、すでに江戸時代の中頃から養蚕が行われていまし 幕末の安政五年に外国と貿易を始めるようになると、養蚕は著しく発展し、村の主産業になりました。そして明治から昭和にかけて、砂川の養蚕は最盛期を迎え、人々の生活を支えました。
この蚕影神社によって、幕末に、砂川て養蚕が盛んに行われていたことがわかります。
立川水天宮
(安産・子授けの守り神)
御祭神
天之御中主大神
安徳天皇
建礼門院
二位の局
石材は五日市の伊那石
縦 四尺(120㎝)
横 四尺(120㎝)
高さ二尺(60㎝)
幕末の弘化三年(1846)当地出身の小山奥左衛門が寄贈したものです。
鶴見邑(現川崎市) の名工飯島吉六の作。
手水鉢の四隅を四人の唐子が、片膝をついて担ぐという、全国でもほとんど例のない珍しい型式です。
正面には「漱盤」と刻されてあり、「漱」とは、口をすすぐの意です。
昭和三四年(1959)建立
巾 七尺五寸(2m30㎝)
原 一尺三寸(40㎝)
高さ 二五尺( 7m65㎝)
仙台石の一枚岩で作られた市内最大の石造物です。
第一次世界大戦から第二次世界大戦の、砂川における戦没者・戦災死者の霊を慰めるため建立されたものです。二八八柱の方々が祀られています。
当時、あまりの大きさに、石を運ぶトレーラーやクレーンを、米軍横田基地から借りた、という逸話が残っています。
◆神楽殿
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