北東にある恋ヶ窪にまっすぐ行かず、史蹟をめぐるため一旦東へ移動する。
◆新府中街道
この先に僕の住んでいたアパートがあり、立ち退きのために恋ヶ窪を離れることになった。
◆とんとんラーメン
やってない!
潰れたの??
たまたま休みかなあ?
恋ヶ窪に住んでいた時は何度か食べに来たことがある。
この樹林地は、江戸時代の新田開発とともにつくれられた武蔵野の雑木林の一つで、昭和30年代までは、農用林・薪炭林として利用されていました。1.36haのコナラ・カヌキを主要木とする国分寺市内では最大の平地林です。
この樹林地は、かつては西側にも広がっていて、その中を通る小路がX字に交差していたことから、「エックス山」という愛称で呼ばれるようになりました。
江戸時代から続くこのエックス山を、市民の貴重な財産として次世代に引き継いでいくため、国分寺市では地権者のご協力をいただき、平成14年度から市有地化を進めてきました。
今後、20年~30年代の雑木林を想定して整備をしていきます。
◆第二西の台ガード
上はJR武蔵野線。
坂本稲荷社の縁起
この地域は、先士器時代、縄文時代中期(今から4~5千年)前から集落があったとされ住居跡が数多く発見されています。
この地『恋ヶ窪』の南側に湧水地帯があり土手を背にして、横穴式住居、石式住居、すり鉢式井戸も有ったと先祖から聞いております。窪地の上は山林樹木が生い茂り、狩猟による生活をするには格好の住居地であったであろうと想像できます。
国分寺市の調査でも50戸程の堅穴式住居跡が発見されており、この『坂本稲荷社』付近にも昭和初期迄その住居跡が見られました。
時代が過ぎて山野を切り開き、農耕が出来る様になり、次第に文化も発達し寛政5年(西暦1793年)2月15日 坂本家先祖「坂本重郎右衛門、坂本利兵衛、坂本定八、坂本八郎右衛門、坂本吉兵衛、坂本孫八、坂本善兵衛、その他、建石七右衛門、宮寺半」により五穀豊、家内安全を祈願しこの地に『坂本稲荷社』が記られました。
石造りの鳥居は東京牛込の菅沼家から、移築されたもので柱には「 寛政7乙卵年12月奉執山口丹波の守菅沼」と刻まれています。
昭和43年(1968年)4月「坂本延次郎、坂本儀鋤、坂本竜吾、坂本誠治、坂本達雄、鈴木隆重郎、宮寺德三郎、立石清太郎、森松之助、富大工小林、建具岩田計次郎」により社屋を建て替えをして今日に至っております。
又、平成9年(1997年)10月には敷石、石垣、外灯2本が坂本家本家政により、提灯2張りが坂本速雄により奉献されています。
『坂本稲荷社』のお祭は毎年2月11日の建国記念日に、近郷近在の子供達も集まり販やかに行っています。
平成18年(2006年)2月には坂本家緑の者により鳥居が奉献されました。
◆恋ヶ窪熊野神社
和歌山県熊野の大神を勧請鎮祭したもので、その起源ははっきりしないが、元弘建武の頃 (1331)、新田義貞鎌倉勢と戦の時、兵火に焼失したという。応永年間 (1394)社殿再建。文明十八年 (1486)五月聖護院道興東行の砌「朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪今はた訪ふも知記りならずや」の御歌奉額あり。 天正十八年(1590) 社殿奉額共に兵火に焼失したという。慶長二年 (1597)九月社殿を再建し、再勧請す。寛文十年(1670)八月社殿を改築す。宝曆十三年 (1763)十二月本殿を造営。明治六年(1873)村社に列せらる。明治四十年 (1905)五月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定される。昭和三年(1928)四月閑東大震災により大破した社殿の大修理をなす。昭和二十三年(1948)二月大東亜戦争によリ大破Lた社殿の復旧完成す。昭和四十二年 (1967)社殿改築す。平成七年(1995)社殿改修す。
神楽殿
「廻国雑記(かいこくざっき)」に、文明十八年 (1486)五月、准后道興法親王、鎌倉より入間へ向かう途中、恋ヶ窪にて御歌御奉額あり。
朽ち果てぬ 名のみ残れる 恋ヶ窪
今はた訪ふも 如記(きど)りならずや
歌碑は、一品(いっぽん)有栖川宮幟仁(たかひと)親王の御筆なり
「有栖川宮幟仁」を調べてみた。
有栖川宮幟仁親王 - Wikipedia
市重要史跡 恋ヶ窪村分水
江戸時代の初め、武蔵野台地は地下水位が低いことから人はほとんど住めない環境でした。しかし、承応3(1654) 年頃に玉川上水ができて分水が引かれると各地に新田村が誕生し、飲料水や生活用水、田用水として水が使われました。
『上水記』によれば玉川上水の分水で一番古いのは野火止用水で、それに次いで「明暦3 (1657)年願済(ねがいずみ)」と記された国分寺分水・砂川分水・小川分水が出来ました。このうち国分寺分水は「国分寺村外二ヶ村(そとにかむら)組合分水」とも呼ばれ、途中で3本に枝分かれして国分寺村・恋ヶ窪村と、今の小金井市に含まれる貫井(ぬくい)村が水を田に引くために利用しました。
分水口は小川新田(西武国分寺線「鷹の台駅」南方)にあり、野川に合流する流末まで一里半 (約6 km)の長さで、水の利用料は一石五斗のお米、後にはお金で納めました。その後、明治3(1870)年に玉川上水の分水口が統合されると、今の砂川用水から分岐して水を引くようになりました。
この緑地内の恋ヶ窪村分水路は、堀幅が上端部で約6~9m、堀底で約50cm、深さは約5mの規模で、堀底は北から南に向って低く傾斜しています。玉川上水の分水にしては規模がひときわ大きな堀ですが、それは分水口から南方の恋ヶ窪村まで水を流すのに、さんや谷と恋ヶ窪谷と呼ばれる2つの谷に挟まれた、この付近一帯の小高い地形に水路を通すためと考えられます。
また、用水路の西側は中世の鎌倉街道を利用した道で、江戸時代には川越街道と呼ばれ、昭和 19 (1944) 年頃に現在の府中街道が整備されるまで、恋ヶ窪地域の主な幹線道路でした。恋ヶ窪村分水は、昭和 40 (1965) 年代初頭まで田用水として使われましたが、その後は大部分が暗渠となり姿を消しました。
緑地内に残る恋ヶ窪村分水は、玉川上水の分水のなかでも規模が大きな堀で、後世に補修された形跡も無く、明暦3年当時の素掘りの形状を留めていることから、江戸時代の貴重な土木遺産として、開削後360年目にあたる平成 29 (2017)年に市の史跡として指定されました。
続く。