2022/09/12 保谷散歩 04 あらやしき公園/丸正 保谷北口店/保谷駅/武蔵野鉄道SL 西武鉄道E11型12号 保存車両/下保谷第三児童遊園/HOYA株式会社創業地

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/12/220000







◆あらやしき公園



あらやしき公園造成感謝碑

 この公園は、保谷市保谷の、高橋敬一・富美御兄弟のご厚意により、保谷氏に平成11年3月24日に寄贈されたもので、そのご厚意に報い、この場所に一体化した自転車駐輪場および緑化公園を造成いたしました。
 保谷市は、高橋家のご厚意に感謝し、本公園が市民の皆様のくつろぎと憩いの場として、末永く利用に供されることを願い、ここに寄贈者に感謝の心をこめて碑を建てます。



上空を飛んでいたヘリコプター



水を飲みに来ていたアゲハ蝶さん











◆丸正 保谷北口店

初めて見たスーパー。
調べてみたら大きなチェーンなんだね。
丸正チェーン商事 - Wikipedia











保谷駅

北口。


近くにあった自販機

最近、増えてきたね。
チェックしてみる。











武蔵野鉄道SL 西武鉄道E11型12号 保存車両

シートがかぶせられているが、蒸気機関車の形をしているのが分かる。
こちらにシートをはがされた時の写真があった。
西武鉄道の保存機関車、6年ぶり姿を見せる シートがはがされたその理由 | 乗りものニュース












◆下保谷第三児童遊園











HOYA株式会社創業地

説明版などは見当たらなかった。
というか民家だね。

社史を覗いてみた。
『1941年 11月 東京・保谷町(現在の西東京市)で東洋光学硝子製造所を創業。 光学ガラス製造に着手。』
とあった。
住所などは書かれていなかったのでこちらで合っているかはわからなかった。

参考
沿革 - HOYA株式会社


近くを飛んでいた飛行機












続く。

2022/09/12 保谷散歩 03 北宮ノ脇遺跡/白子南公園/中荒屋敷遺跡/下保谷森林公園/福泉寺/稲荷神社/旧高橋家屋敷林

前の日記からの続き。






◆北宮ノ脇遺跡

現地には説明版など見当たらなかった。






google mapのマークは上の写真のところあたり。

WEBで調べてみると縄文時代ものらしい。
場所は「北町五丁目」としか書かれていないので、場所があっているかどうかはわからない。

参考
北町5丁目-遺跡一覧













◆白子南公園













◆中荒屋敷遺跡

現地には説明版など見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。
WEBで調べると旧石器時代の遺跡のようだ。
住所は「西東京市保谷3丁目」としか書かれていないのでこちらで合っているのかは判らなかった。

参考
上保谷上宿遺跡・中荒屋敷遺跡 - 全国遺跡報告総覧













◆下保谷森林公園













◆福泉寺


木彫彩色三十番神神像

 三十番神は、およそ天正期(1573~92)の頃から江戸時代の終わりまで、旧下保谷村の鎮守社(現下保谷天神社)でした。古くは神名を墨書した掛軸を御神体としていましたが、江戸時代の後半、この様式の神像に替えて祀られ、今日に伝存しました。当時村びとのほとんどが日蓮宗の信徒であったことから、日蓮宗が独自の守護神として崇敬する三十番神を村鎮守として勧請し、敬虔な番神講(御奉射)などを継承して、村の平穏を祈りました。
 この神は古来の神々の中から善神三十柱を選んで、それらの善神が一か月三十日間、毎日番代りに村を守護すると考える信仰から生れており、その神像は女神を含むそれぞれ特徴を特った、木彫彩色の小像三十体として表現され、厨子内神殿の雛壇に並んでいます。
 神仏分離を布告した明治維新政府によって、番神の中に天照大神を配するなどの理由をもとに、その信仰が禁止されたため、以後は現在の下保谷天神社に代わりました。この神像が福泉寺に現存するのは、維新以前の神仏習合時代に、この寺が鎮守三十番神別当寺であったためです。


木雕彩色三十番神神像

 三十番神は、およそ天正期(1573~92)の頃から江戸時代の終わりまで、旧下保谷村の鎮守社(現 天神社)であった。古くは神名を墨書した掛軸を御神体としていたが、江戸時代の後半、この様式の神像に替えて祀られ、今日に伝存した。当時村びとのほとんどが日蓮宗の信徒であったから、日蓮宗が独自の守護神として崇敬する三十番神を村鎮守として勧請し、敬虔な番神講(御奉射)などを継承して、村の平穏を祈った。
 この神は古来の神々の中から善神三十柱を選んで、それらの善神が一か月三十日間、毎日番代りに村を守護すると考える信仰から生れており、その神像は女神を含むそれぞれ特徴を持った、木彫彩色の小像三十体として表現され、厨子内神殿の雛壇に並んでいる。
 神仏分離を布告した明治維新政府によって、番神の中に天照大神を配するなどの理由をもとに、その信仰が禁止されたため、以後は現在の天神社に代った。この神像が福泉寺に現存するのは、維新以前の神仏習合時代に、この寺が鎮守三十番神別当寺であったためである。














◆稲荷神社

中へ入れなかったので外からお参り。




google mapに載っていない神社だった。
丸印の所あたりにあった。













◆旧高橋家屋敷林




この屋敷林のみどりを次世代に残していくために、 ごみを捨てたり、 樹木などを傷つけたりしないようご協力下さい。
西東京市みどり環境部みどり公園課



 下保谷村は明治元年(1868) 七月、駿河以東十三ヶ国における府藩県三治制の実施にあたり、旧松村忠四郎代官所支配と旗本領の村々とともに品川県(知県事古賀一平)に編入された。この村絵図は、品川県治下の下保谷村の村役人が、明治二年(1869) 九月に「品川県御役所」へ提出した絵図の下図である。
 新政府は明治二年二月、「府県施政順序規則」を定めた。それによると、知府事・知県事の職掌として、①平年租税の高を量り、その府県の常費を定め、②議事法を立て、③戸籍を編成し、④地図を詳しくつくり、⑤凶荒を予防し、⑥賞典を挙げ、⑦窮民を救い、⑧制度をたてて風俗を正し、⑨小学校を開設し、⑩地方を興し富国の道を開き、⑪商法を盛んにし、⑫租税の制度を立てることが定められた。 ここにおいて「王政御一新」の具体的な政策が明確にされた。
 この絵図は、「規則」 十二項のうち の必要に応えて制作されたものと思われる。そのために、各小字ごとに屋敷と品等別畠面積が書きこまれ、余白に下保谷村全体の高反別と家数を集計している。 そのほか、農民居宅・道路・川(白子川源流)橋・塚・馬捨場などが克明に描かれているが、旧称「江戸道」を、いちはやく「東京道」と改めているにもかかわらず、全体として江戸時代村絵図の描示方法をとどめている。またこの絵図は、 田無村(田無市)・前沢村・南沢村(ともに東久留米市) の村境に入込んだ現ひばりが丘北四丁目とひばりが丘一~四丁目にあたる「下保谷新田が省略されているので、完全な村絵図といえない。 明治初年には、 「下保谷新田」に一軒の農家もない状態が、その描示を省略した理由になっているのではなかろうか。小樽村(現練馬区大泉地区)境の字「荒屋敷」に経塚を二つ描いているが、これは一つの誤りではないだろうか。 『新編武蔵風土記稿』一三四の下保谷村の項に「鐘塚
村の北にあり、経塚村の南にあり、相伝ふこの二の塚は、隣村小樽村妙福寺開山日延聖人改宗の日経文及撃証をこの処へ埋め、其上へ塚をきづきたる故に名とせり」とある伝承によれば、北方の塚は「鐘塚」になる。塚は名字ごとにつくったといわれているが、「上」 「坊ヶ谷戸」・「松ノ木」は一緒にまとめて塚を築いたと伝える。
 それが「弾中塚」 (西武池袋線保谷五号踏切そば) か なぜ「弾中塚」と命名した意味が不明だが、今では「曲り松塚」とか「三角山」とか「天王山」とか呼ばれてい概してこの絵図は、江戸時代後期の下保谷村の様相を忠実に伝えている。道路子川源流に架る橋、寺社と名前入りの農家の分布を目安に現在地にあてはめ、観をしのんでいただきたい。


デザインマンホール



参考
西東京市のマンホール













続く。

2022/09/12 保谷散歩 02 妙福寺/日蓮宗法華結社/練馬区立大泉交通公園/どろんこ わぁるど/常勝院/大乗院/新井憩いの森

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/12/210000





◆妙福寺

祖師堂



 当山は、もと慈覚大師(円仁)を開基とする天台宗の寺で、慈東山大覚寺と称し、その開創は嘉祥3年(850)と伝えられています。鎌倉時代中山法華経寺歴代の日高・日祐上人の巡錫に会い、殊に元亨2年(1322)日祐上人により、法種山妙福寺として日蓮宗に改宗、今日に到りました。(「西中山妙福寺文書」昭和58年刊行)。
 天正年間(1573-92)より寺領21石5斗を与えられ、3代将軍徳川家光から14代家茂に至る9通の朱印状(写)も所蔵されています。この地での日蓮宗の中心となり、「西の中山」と称され、現在の山号も「西中山」となっています。
 寺域には祖師堂、本堂、仁王門、鬼子母神堂、鐘楼などがあり、庫裡の玄関に残る「からかさ造り」と呼ばれる小屋組は元禄14年(1701)の上棟と伝えられる貴重なものです。

練馬区指定文化財
○「妙福寺文書」(一括)
○「妙福寺の梵鐘」(一口)

練馬区登録文化財
〇「福徳元年の月待板碑」(一基)
〇「妙福寺の駕籠」(一挺)


三十番神


鬼子母神


鐘楼



寛文四年(一六六四)銘、作者江戸の鋳物師、田中大和守藤原重正。
区内では古い部類の梵鐘であるばかりでなく、妙福寺の歴史に関わる銘文が刻まれている。


に王門



山門


妙福寺本應院











日蓮宗法華結社

日蓮宗関係の寺院と思われるのだが、WEBで調べてもよくわからなかった・・・。











練馬区立大泉交通公園













◆農業体験農園 どろんこ わぁるど



 「どろんこ わぁるど」 は、 農業を全く経験したことのない方でも安心して野菜作りを楽しむことのできる農園です。
 農家が永年培った技術と経験でみなさんの野菜作りのお手伝いをいたします。
 大空のもと、 太陽の光 季節の風 大地の温もりを感じながら、自ら額に汗して作った旬の野菜の味は格別です。
 一粒の種から命を育む感動と収穫の喜びを体験してみませんか。
 「どろんこ わぁるど」 は、 みなさんのご利用を心からお待ちしています。


杉並区にもないかな?
と思って調べてみたけれど、近所にはないなあ・・・・。
参考
農業体験農園について|杉並区公式ホームページ











◆常勝院

門が閉ざされていたので外からお参り。











◆大乗院



 大乗院は、日蓮宗のお寺で、山号を新井山といい、寺号は円福寺です。これは、昔この地を小榑村荒井といったことに由来するものと思われます。
 開山日讃上人は永徳二年(1382)に遷化され、また永享・享徳(1429~1455)年号の板碑が出土していることから、開創以来600年のの古刹であることがわかります。
記録によりますと、四万八千石関宿藩主久世大和守の祈願所として、格式の高いお寺であったといいます。
 明治四十年、火災により本堂・庫裡などが灰燼に帰しましたが、山門は宝暦二年(1752)の建立で、火災を免れた唯一の建物です。現在の本堂は昭和五十三年に新築されました。
 帝釈堂には柴又帝釈天題経寺の帝釈天の御分身である帝釈天王像が祀られており、庚申の日には信者の人びとによって帝釈天例祭が行なわれています。


帝釈天


山門


山門入り口











◆新井憩いの森











続く。

2022/09/12 保谷散歩 01 大泉学園駅/松屋/ラ・ルネサンス・ド・三幸堂ビル/大泉北野神社/泉橋/お松塚の祠


24時間勤務アケで、西武池袋線大泉学園駅から同じくひばりヶ丘駅まで散歩。








大泉学園駅






大井泉アニメゲート

他にも像がある。


2020/11/10撮影














松屋

朝ごはん♪










◆ラ・ルネサンス・ド・三幸堂ビル

駅前の商業施設。










◆大泉北野神社

一度来たことがある。
2020/11/10 石神井台散歩 02 池袋駅/大泉学園駅/大泉アニメゲート/大泉北野神社/泉橋/お松塚の祠/東大泉五丁目児童遊園 - ovanの社会科見学



 当社は、江戸時代土支田村の番神様と呼ばれ、村民の崇敬を集めていました。番神様とは法華宗(今の日蓮宗)の独特の三十番信仰-神仏混淆時代に、1ヶ月30日を神々が毎日交代で守護する-のことです。
 明治政府はそうした神仏習合の思想を禁止し、三十番神の名称を廃止させました。以来当社は菅原道真公を祭神とし、北野神社と呼ぶようになりました。この辺は明治初年上土支田村となり、同24年大泉村昭和7年大泉町と変わりましたが、その中で当社は明治5年村社に列格し、最近では「大泉天神」と呼ばれて親しまれています。
 道真公は学問の神様です。毎年初詣から春の受験期にかけて、合格祈願の人々が奉納する絵馬で絵馬掛けがいっぱいになります。


瑞穂稲荷神社


鳥居1


鳥居2


鳥居3










◆泉橋

下は白子川。













◆お松塚の祠



 この石造の祠は、80mほど東、現在鉄道線路と道路になっている場所にあった塚に建てられていました。その後、道路拡張などにより白子川に泉橋の架かる道沿いに移された後、現在地に移設されました。
 かつての塚には大きな一本松があり、「お松様」とか「お松どん」と呼ばれていました。
 祠の側面には、明治二十年(1887)四月十三日に小美野玉次郎が建てたことが刻まれています。



東大泉五丁目児童遊園、敷地脇にあった。










続く。

9月5日~9月11日(健康診断、番町、野球、角川庭園(お月見))

写真
江戸城外堀史跡展示広場@四谷
神宮球場@外苑前
角川庭園@荻窪

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9月5日(月)晴

24時間勤務アケで・・・・。

体調悪く、まっすぐ帰宅。
ビデオ作業する。
しばらく散歩してないなあ。

4061歩

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9月6日(火)晴

休み♪

やっぱりビデオ作業する。
ワンダーjapanTVが懐かしい。
若かりし日の「クロスケ」さんが映っていた!
出演されているとは思わなかったなあ。

体調、かなり復活!

2552歩

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9月7日(水)曇り

24時間勤務(当務2)

健康診断だった。

6580歩

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9月8日(木)晴

24時間勤務アケで・・・・。

番町散歩 01 パレスサイドビル/北桔橋門/国立公文書館/イギリス大使館/半蔵門駅/福寿大神
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/220000

番町散歩 02 シルバービル/地学会館/番町の庭/新坂/三年坂/五番町
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/223000

番町散歩 03 二宮金次郎像/日本大学通信教育部3号館/内田百閒 三畳御殿跡地(旧住居跡)/内田百閒 掘立小屋/六番町/四ツ谷駅
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/230000

江戸城外堀史跡展示広場
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/09/233000

10601歩

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9月9日(金)雨/晴

休み。

弟、姪っ子と3人で神宮球場で野球観戦。

7281歩

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9月10日(土)晴

休み♪

細君と角川庭園(荻窪)でお琴を聞きながらお月見♪

7305歩

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9月11日(日)晴

24時間勤務(当務1)

8345歩

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SONY reader
休み。

2022/09/08 江戸城外堀史跡展示広場


何回か来たことがあるが、情報量が多いため、文字化を断念していた。
今回気合い入れて作業してみる!





■都市化の波と史跡指定の動き

 1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にも、雉子橋から幸橋の間の外堀を史跡指定する動きがありましたが、 東京~品川間の鉄道路線増設計画や戦争により見送られました。 戦後、江戸城の保護の動きが進み、 1956(昭和31)年に、 堀の埋め立てを免れていた牛込門 赤坂門、虎ノ門周辺が「江戸城外堀跡」として国史跡に指定されました。とくに、 牛込口・四谷口・赤坂日には、升形の一部石塁も残り、 噴達の形状は良好と評価されました。
 2008(平成20) 年には、文部科学省庁舎建替えに伴う発掘調査により、 新たに2カ所の外堀石垣遺構が発見され、 史跡に追加指定されました。
 1960(昭和35) 年に特別史跡に指定された江戸城跡(西の丸と吹上地域は皇居) 周辺の江戸城の遺構は、首都高速道路建設や鉄道敷設による改変を受けながらも、 東京の都市機能と歴史的景観が共存する風致を形成してきました。
 甲武鉄道に由来する中央線は、江戸城外堀の風致と調和した景観を、未来へ継承してゆきます。










■堀の埋め立てと外濠公園

 1926(大正15) 年、震災復興の砂利置場等に活用するために現在の外濠公園グラウンド一帯が埋め立てられました(左図)。これに先立ち、 1911 (明治44) 年に江戸城外堀の土手を活用するために公園として位置付けられ、1927(昭和2)年に牛込見附から新見附までが開設されました。その後も市民の憩いの水辺空間として多様な計画の検討されましたが、1936(昭和11)年に土手の部分と四谷の埋立地が公園として開設されました(右図)。










四ツ谷駅周辺の戦後のできごと

 第二次世界大戦後の1959(昭和34)年に、戦前から計画されて東京メトロ丸の内線四ツ谷駅が開業しました(左図)。 1964(昭和39) 年の最初の東京オリンピックでは、聖火リレーが四谷見附橋を渡る姿が全世界に放映されました (中央図)。 また、1993(平成5)年には、徳仁親王のご成婚祝賀パレードが四谷見附橋を通過しました(右図)。










■真田濠の埋め立て

 四ツ谷駅の南側に広がっていた真田濠は、1950(昭和25)年に戦災のがれきを処理するために埋め立てられ、 上智大学のグランドとなりました(下図)。 現在も土塁部分はほとんど江戸時代のまま残されており、堀の埋め立て面は埋め立てる前の水面の高さと同じであるため、堀の広さを感じることができます。










■広がる東京の鉄道網

 甲武鉄道は1904 (明治37)年に御茶ノ水駅まで延伸され、さらに万世橋駅(左上図)まで建設が進められました。建設には外堀と神田川という江戸城惣構の土地が活用されました。その間の1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、 中央線 (中央東線) となりました。 さらに、1919(大正8)年には東京駅 (1914(大正3)年開業・右上図)まで延伸されました。 現在も見ることができる御茶ノ水駅から東京駅を越えて新橋駅まで連なる高架橋(左下図)は、当時から使用されているものです。 中央線の乗降客数の増加により輸送力の増強が求められたため、 1922(大正11) 年より複々線化工事が始まり、1929(昭和4)年に運行が開始されました(右下図)。










■貨物線から急行線へ

 利用者の増加と利便性の向上に対応するため、 飯田町駅までの貨物線を転換し、さらに御茶ノ水駅まで延する工事が行われ、1933(昭和18)年から東京~中野間に急行電車が走り始めました。これに伴い、 四ツ谷駅には乗り換えのための急行電ホームが増設されました 背景図)。










四ツ谷駅周辺における複々線化工事

 四谷駅周辺では、工事によって残っていた江戸城外堀の大部分が埋め立てられ、それまであったトンネルも撤去されました(左図)。東宮御所(現在の迎賓館)の敷地の一部をつうかする近は、3線の箱型トンネルで、当時の最先端する技術である鉄筋コンクリートでつくられており、現在もそのまま使われています(右図)










■個性的な隧道坑門デザイン

 この図面は、甲武鉄道開業当時、 外堀にあった4つのトンネルの坑門です。 現在も残る御所隧道には西洋風のデザインが取り入れられ、四谷隧道には甲が掲げられました。 三番町隧道には中国南朝の通済集に由来する 「通済門」「既済門」 と名付けられ、都市への門が表されていました。 これらは、首都東京の入口に相応しい風格となるように、という想いが反映されたものと考えられます。










■歴史的景観に配慮していた甲武鉄道

 甲武鉄道市街線の整備においては、それまで280年続いてきた江戸城外堀の歴史的景観との共存が大きな課題でした。 計画当時、地域住民は、首都東京の美しい景観を破壊する恐れがある、という反対運動を起こしました。 それを受けて東京市は、江戸城外堀の風景を綿密に調べ、 甲武鉄道株式会社に対して、 樹木伐採の禁止やトンネルの活用により地形の改変を最小限に抑えるようにすることなど、 細かく指示しました。 開業後(右上図) は、 歴史的な風景と近代化の象徴の鉄道が共存する東京の新名所として、数多くの絵葉書で世界に紹介されるようになりました。










四ツ谷駅周辺の工事

 開業当時の四ツ谷駅は現在よりも新宿駅寄りに作られました(左図)。 江戸城外堀を埋め立てて線路と駅が構築されましたが、濠内にはヘドロが5mも堆積しており、埋め立てには大量の土砂を必要とする大工事となりました。










■外堀における 市街線路線計画図

 この図は、甲武鉄道市街線の外堀区間(現在の四ツ谷駅飯田橋駅)の計画図です。 江戸城外堀の土塁を切り込み、もしくは堀を埋め立てて線路が敷設され、 見附があった四谷門、 市谷門、牛込門にそれぞれ駅が設置されたことで、 江戸城の防御の要衝が都市交通の結節点へと変化していきました。










陸軍省からの要請文

 この文書は、甲武鉄道市街線の路線計画に対して、陸軍省が軍事利用できるようにするために練兵場のある青山を通るルートを要請した時の文書です。その結果、四ツ谷駅が誕生することとなりました。










甲州街道・四谷門の改变と市電と四谷見附橋

 江戸時代の甲州街道は、江戸の防御のため、 四谷門でかぎ状に曲がる経路でしたが、交通手段の発展に伴い、門とともに改変されていきました。 1903(明治36) 年には路面電車の開業に合わせて四谷門の石垣の大部分が撤去されました。 また、四谷見附の土橋も、1922(大正11) 年より始まる中央線複々線化の際に撤去されました(左図)。
 1913(大正2)年には甲州街道を直線化する計画が決まり、ネオバロック様式の装飾が施された豪華な初代四谷見附橋が完成しました(右図)。 現在の四谷見附橋は1991(平成3)年に道路拡幅に伴い架け替えられた2代目の橋です。










江戸城外堀を利用した鉄道

 1872(明治5)年に、日本最初の鉄道が新橋駅・横浜駅間に開通しました。 その後、 東京の都市化が著しく進み、 都市基盤整備が急務となりました。 この動きにあわせ、現在の中央線となる甲武鉄道が計画されました。 甲武鉄道は、まず1889 (明治22)年に新宿駅立川駅間で開業しました。 その後、 1894 (明治27)年に江戸城外堀の空間を利用して、新宿駅~牛込駅(現在の飯田橋駅)間において市街線が開業すると、甲州街道の拠点であった四谷は交通の要衝として、さらに賑わうこととなりました。










甲武鉄道の汽車と電車

 甲武鉄道は、開業当初、蒸気機関車を使っていましたが(左上(図)、開業から1年後には利用者が3倍に急増したため、高頻度運行が可能となる電車の導入が検討されました。 1904 (明治37)年、路面電車以外の電気鉄道が初めて運行を開始しました(右図)。当時の車両は、JRの電車の元祖として、鉄道博物館に展示されています(左下図)。










四ツ谷駅周辺の移り変わり

 1883(明治16)年の国は、甲武鉄道敷設以前を示したもの(床面の地図と同じ)で、江戸時代以来の江戸城外堀や四谷門(見)の石垣と土橋がみられます。 1895(明治28) 年の図では外を利用して鉄道が敷かれ、昭和初期の図では四ツ谷駅周辺の堀が埋められて変貌を遂げた様子が伺えます。










四ツ谷駅改築工事で発掘された木樋

 1989(平成元)年に行われた四ツ谷駅改築工事や、地下鉄南北線建設工事で、四谷門周辺から玉川上水の水槽(左図)や石垣槌が発掘されました。










■外堀の眺めと土塁の植栽

 1636(寛永13)年、幕府は御手伝魯記の大名に、構築した上界に芝をはらせ、翌年には土塁の上に松杉を植えさせました。 植え方は、間(約1.8m) 置きに本ずつ、 表側に2m前後の大きな木、内側に大小取りませて二筋とし、 風に負けないよう風きりをしっかり結わえるよう指示をしています。










■名所江戸百景「玉川堤の花 |

 この絵は、現在の新宿御苑付近を流れる玉川上水を描いたもので、右手には信濃高遠藩(長野県伊那市高遠町) 内藤家中屋敷がみえます。 桜の下に花見を楽しむ人々も描かれています。










■四谷門と玉川上水

 江戸は良質な飲料水を得にくいため、家康は江戸に入る前後から上水道の整備を進めたといわれています。江戸の拡大につれ井の頭池から引く神田上水や赤坂溜池では不足となり、幕府の計画を詰け負った町人形右衛門・清右衛門兄弟により、 1654(承応3)年、 玉川上水が完成しました。
 玉川上水は、羽村 (現東京都羽村市) に設けた堰で多摩川から取水し、約43kmの水路で四谷大木戸 (右図)まで至り、ここから地下に埋設された木樋・右極を通って江戸城や江戸市中へ給水する水道でした。四谷門の橋を通る木槌と石が発掘で確認されています。 1901 (明治34) 年、近代水道の整備により、神田上水とともに市内への給水が停止されました。

四谷門の土橋沿いに作られた 水道橋
 この古写真は、 四谷円から外の旧町人地 (新宿区側)を撮影したものです。 土橋の左右に屋根がついた木道(水道橋) を確認することができます。










■「江戸城外堀史跡展示広場」ー外堀と鉄道ー

 この広場は、四ツ谷駅周辺に点在する江戸城外堀の遺構解説とともに、外堀と明治期以降の鉄道の歴史を紹介する場として2020(令和2)年に開設しました。 江戸時代の外堀を活用して近代都市東京の社会基盤である鉄道が整備され、 現代に継承されているという歴史の重層性を感じて頂ければ幸いです。

江戸城築城と外堀普請
 四谷という地名は、 武州豊島郡村関戸という原野に百姓家が四軒あったことに由来するといわれます。 1590(天正18)年、江戸に入った徳川家康は、江戸城と街道を整備しました。 1603(慶長6)年に架けられた日本橋を起点とする五街道の一つ、甲州街道(現在の新宿通り) は、 半蔵門から四谷門を通って武蔵府中に向かう幹線道です。 江戸の出入口には、四谷大木戸が設置されました。 1636(寛永13)年、江戸城外郭の四谷門と外堀の築造にあたって、 半蔵門から四谷門に連なる麹町13町の内、十一丁目から十三丁目を四谷門外に、町や寺社も移転させられました。 江戸城外堀の大部分は、 谷地形や川を利用して造られ真田濠(現上智大学グラウンド) は、台地を深く掘削して造られました。 掘りあげた土で、 四谷門外東西の谷を埋め、 四谷伝馬町・四谷塩町・伊賀町等の場が形成されていきました。また、四谷門南の喰違門内外には、 徳川御三家譜代大名の屋敷が配置されました。

四谷門「旧江戸城写真帖」
 この写真は、現在の新四谷見附橋から千代田区側を見た風景です。正面に冠木門(高円)、右側に渡櫓がみえます。 右手前には玉川上水高見桝があります。

江戸城外堀と城下町の拡大
 1642(寛永19) 年頃を描いた左の絵図では、江戸城外郭である外堀と、江戸城の城門(見附) が完成していることが分かります。他方、外国の外側は田畑や谷がいまだ入り組んでおり、1657(明暦3)年の明暦大火後に拡大・整備される以前の江戸の姿が知られる貴重な絵図です。

江戸城外堀構築に伴う麹町の一部移転
 外堀と四谷門の築造にあたり麹町十一丁目から十三丁目が上図に示す位置に移転されました。 これらの町は現在も日枝神社の氏子域で、 山王祭では神輿が渡しています。










江戸城外堀散策案内図

 この2枚の散策図は、 飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。 これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、 江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、 東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。










■史跡 江戸城外堀跡周辺案内図 四ツ谷駅周辺案内図

2022/09/08 番町散歩 03 二宮金次郎像/日本大学通信教育部3号館/内田百閒 三畳御殿跡地(旧住居跡)/内田百閒 掘立小屋/六番町/四ツ谷駅

前回からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/09/08/223000





二宮金次郎

右側学校の敷地内にあるらしい。
確認できなかった。



google mapのマーク





日本大学通信教育部3号館






◆内田百閒 三畳御殿跡地(旧住居跡)



瓢逸と諷刺の名文家 内田百閒(うちだひゃっけん) 旧居跡地
 内田百閒は、1889年(明治二十二年) 岡山に生れた。本名、内田栄造。別号百鬼園夏目漱石門下の異彩として、随筆に、幻想小説に、鉄道紀行に、独特の文学世界を繰り広げた。
 1937年(昭和十二年)、市ヶ谷仲之町から土手三番町三七(現五番町十二)に転居してきた。昭和二十年五月の東京大空襲により居宅を焼失したため、隣家の松木邸の掘立小屋②に戦後も三年ほど住み続けた。昭和二十三年、六番町六に、いわゆる三畳御殿③を新築し、1971年(昭和四十六年)四月に亡くなるまでの後半生を、この番町で過ごした。
 とくに昭和三十二年、愛猫のノラが失踪し、番町近辺を懸命に探索した様子を綴った随筆『ノラや』は、彼の韜晦な性格から醸し出す苦味とは別の人情味を知らしめた。
 三〇年目の生誕日に、旧居跡地付近に記念碑を設置する。







◆内田百閒 掘立小屋 バロン松木

説明版などは見当たらなかった。





上記、旧居跡説明版、2番の所。
google mapの場所は上の写真のところあたり。






◆六番町



 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」 と呼ばれる旗本たちを住まわせました。 ここから、 「番町」 という地名が生まれました。
 現在の番町小学校が建っている場所には、かつて定火消 (消防)の役屋敷があり、のちに上野小幡藩上屋敷となりました。 四谷御門寄りの広い敷地には、尾張藩付家老成瀬隼人正の上屋敷がありました。 明治以降は、下六番町という町名になり、 昭和十三年(1938)から現在の六番町になりました。
 明治から大正・昭和にかけては、数多くの文化人や高級官僚の住宅地として発展しました。 『破戒』 『夜明け前』島崎藤村、『婦系図』『天守物語』 の泉鏡花アララギ派歌人島木赤彦、 『或る女」 の有島武郎、 「三田文学」で活躍した水上瀧太郎、 『父帰る』の菊池寛、『多情仏心』の単見、『百鬼園随筆』の内田百閒など、多くの作家たちが居を構えました。 また、 印象派を紹介した画家で作家でもあった有島生馬、エコール・ド・パリで活躍した画家の藤田嗣治(つぐはる)、歌舞伎俳優の初世中村吉右衛門、初世市川猿翁、 二世中村又五郎、三世市川猿之助長唄の吉住慈恭(じきょう)などの芸術家も六番町の住人でした。
 かつては日本の近代的女性を育んだ明治女学校、日本の歌壇の中心的存在であったアララギ出版所、 菊池寛が創立した文藝春秋社もあり、白樺派の誕生にかかわった有島邸や若い作家たちが集った
鏡花邸など、 まさに六番町から、日本の近代文学や芸術が開花したといっても過言ではありません。








四ツ谷駅


江戸城外堀史跡展示広場

駅改札脇にある。
ここのだけ別ページにまとめてみた。
2022/09/08 江戸城外堀史跡展示広場 - ovanの社会科見学







まだまだ暑いね・・・。
坂もあるからちょっとキツイ。
まだまだ都心にもめぐってないところがあるけれど、ちょっと遠くに行ってみたくなった(w