2022/09/12 保谷散歩 03 北宮ノ脇遺跡/白子南公園/中荒屋敷遺跡/下保谷森林公園/福泉寺/稲荷神社/旧高橋家屋敷林

前の日記からの続き。






◆北宮ノ脇遺跡

現地には説明版など見当たらなかった。






google mapのマークは上の写真のところあたり。

WEBで調べてみると縄文時代ものらしい。
場所は「北町五丁目」としか書かれていないので、場所があっているかどうかはわからない。

参考
北町5丁目-遺跡一覧













◆白子南公園













◆中荒屋敷遺跡

現地には説明版など見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。
WEBで調べると旧石器時代の遺跡のようだ。
住所は「西東京市保谷3丁目」としか書かれていないのでこちらで合っているのかは判らなかった。

参考
上保谷上宿遺跡・中荒屋敷遺跡 - 全国遺跡報告総覧













◆下保谷森林公園













◆福泉寺


木彫彩色三十番神神像

 三十番神は、およそ天正期(1573~92)の頃から江戸時代の終わりまで、旧下保谷村の鎮守社(現下保谷天神社)でした。古くは神名を墨書した掛軸を御神体としていましたが、江戸時代の後半、この様式の神像に替えて祀られ、今日に伝存しました。当時村びとのほとんどが日蓮宗の信徒であったことから、日蓮宗が独自の守護神として崇敬する三十番神を村鎮守として勧請し、敬虔な番神講(御奉射)などを継承して、村の平穏を祈りました。
 この神は古来の神々の中から善神三十柱を選んで、それらの善神が一か月三十日間、毎日番代りに村を守護すると考える信仰から生れており、その神像は女神を含むそれぞれ特徴を特った、木彫彩色の小像三十体として表現され、厨子内神殿の雛壇に並んでいます。
 神仏分離を布告した明治維新政府によって、番神の中に天照大神を配するなどの理由をもとに、その信仰が禁止されたため、以後は現在の下保谷天神社に代わりました。この神像が福泉寺に現存するのは、維新以前の神仏習合時代に、この寺が鎮守三十番神別当寺であったためです。


木雕彩色三十番神神像

 三十番神は、およそ天正期(1573~92)の頃から江戸時代の終わりまで、旧下保谷村の鎮守社(現 天神社)であった。古くは神名を墨書した掛軸を御神体としていたが、江戸時代の後半、この様式の神像に替えて祀られ、今日に伝存した。当時村びとのほとんどが日蓮宗の信徒であったから、日蓮宗が独自の守護神として崇敬する三十番神を村鎮守として勧請し、敬虔な番神講(御奉射)などを継承して、村の平穏を祈った。
 この神は古来の神々の中から善神三十柱を選んで、それらの善神が一か月三十日間、毎日番代りに村を守護すると考える信仰から生れており、その神像は女神を含むそれぞれ特徴を持った、木彫彩色の小像三十体として表現され、厨子内神殿の雛壇に並んでいる。
 神仏分離を布告した明治維新政府によって、番神の中に天照大神を配するなどの理由をもとに、その信仰が禁止されたため、以後は現在の天神社に代った。この神像が福泉寺に現存するのは、維新以前の神仏習合時代に、この寺が鎮守三十番神別当寺であったためである。














◆稲荷神社

中へ入れなかったので外からお参り。




google mapに載っていない神社だった。
丸印の所あたりにあった。













◆旧高橋家屋敷林




この屋敷林のみどりを次世代に残していくために、 ごみを捨てたり、 樹木などを傷つけたりしないようご協力下さい。
西東京市みどり環境部みどり公園課



 下保谷村は明治元年(1868) 七月、駿河以東十三ヶ国における府藩県三治制の実施にあたり、旧松村忠四郎代官所支配と旗本領の村々とともに品川県(知県事古賀一平)に編入された。この村絵図は、品川県治下の下保谷村の村役人が、明治二年(1869) 九月に「品川県御役所」へ提出した絵図の下図である。
 新政府は明治二年二月、「府県施政順序規則」を定めた。それによると、知府事・知県事の職掌として、①平年租税の高を量り、その府県の常費を定め、②議事法を立て、③戸籍を編成し、④地図を詳しくつくり、⑤凶荒を予防し、⑥賞典を挙げ、⑦窮民を救い、⑧制度をたてて風俗を正し、⑨小学校を開設し、⑩地方を興し富国の道を開き、⑪商法を盛んにし、⑫租税の制度を立てることが定められた。 ここにおいて「王政御一新」の具体的な政策が明確にされた。
 この絵図は、「規則」 十二項のうち の必要に応えて制作されたものと思われる。そのために、各小字ごとに屋敷と品等別畠面積が書きこまれ、余白に下保谷村全体の高反別と家数を集計している。 そのほか、農民居宅・道路・川(白子川源流)橋・塚・馬捨場などが克明に描かれているが、旧称「江戸道」を、いちはやく「東京道」と改めているにもかかわらず、全体として江戸時代村絵図の描示方法をとどめている。またこの絵図は、 田無村(田無市)・前沢村・南沢村(ともに東久留米市) の村境に入込んだ現ひばりが丘北四丁目とひばりが丘一~四丁目にあたる「下保谷新田が省略されているので、完全な村絵図といえない。 明治初年には、 「下保谷新田」に一軒の農家もない状態が、その描示を省略した理由になっているのではなかろうか。小樽村(現練馬区大泉地区)境の字「荒屋敷」に経塚を二つ描いているが、これは一つの誤りではないだろうか。 『新編武蔵風土記稿』一三四の下保谷村の項に「鐘塚
村の北にあり、経塚村の南にあり、相伝ふこの二の塚は、隣村小樽村妙福寺開山日延聖人改宗の日経文及撃証をこの処へ埋め、其上へ塚をきづきたる故に名とせり」とある伝承によれば、北方の塚は「鐘塚」になる。塚は名字ごとにつくったといわれているが、「上」 「坊ヶ谷戸」・「松ノ木」は一緒にまとめて塚を築いたと伝える。
 それが「弾中塚」 (西武池袋線保谷五号踏切そば) か なぜ「弾中塚」と命名した意味が不明だが、今では「曲り松塚」とか「三角山」とか「天王山」とか呼ばれてい概してこの絵図は、江戸時代後期の下保谷村の様相を忠実に伝えている。道路子川源流に架る橋、寺社と名前入りの農家の分布を目安に現在地にあてはめ、観をしのんでいただきたい。


デザインマンホール



参考
西東京市のマンホール













続く。