2023/03/09 武蔵野神社





 野中新田開発の際、 上谷保村 (現国立市)の圓成院住職大堅 と 矢沢藤八らは、田開発に当たり全開墾地の12分の1を社地と寺地にすることにしました。
 そして、新田開発の基礎ができた享保9 年 (1724) 9月3日、 毘沙門天を村の鎮守として上谷保村から遷宮し、 圓成院が管理していました。
 その後、明治維新の際に末社として祭ってあった猿田彦大神を祭神に、社号を「武蔵野神社」として分離独立しました。
 祭礼は10月3日です。




七福神




猿田彦大伸




武蔵野神社御主神 猿田彦大神
 猿田彦大神はまたの名を大土御祖神とも申し上げ、国つ神であられます。日本書紀によりますと「状貌魁偉にして、鼻の長さ七燃、背の高さ七尺余、口尻赤くして光り、眼は輝く鏡の如くであった」とあります。
 天孫瓊瓊杵尊高天原より降臨される際、八幡という処に迎え、高千穂峰に案内されました。後、猿田彦大神伊勢国五十鈴川の川上に到り住まわれました。
 第十一代垂仁天皇の御世に、皇女の倭姫命が、天照大神をお祀りする最良の宮地を求めて各地を巡幸され、猿田彦大神の子孫の住まう伊勢の地に鎮座されたのも、深い由縁のあった故と論ぜられています。
御神徳
 「道は日神の道、教えは猿田彦大神の導くところ」と云われ、率先して困難打破の道開き・導きの神として開運・社業繁栄・旅行安全・交通安全の御神徳顕く、また地祭り・方除けの神として広く敬拝されています。
御神像
 昭和六十三年の境域一新の大改修事業は、ここに完工を見るに及び、氏子指田庫吉氏は大神の御神徳のより一層の発揚をと、猿田彦大神の御神像を全身全霊込めて製作、奉納されました。氏のご献納を讃えますとともに、地域融和さらには世界平和への大神のご導を賜わらんことを心拝祈念致します。




◆神楽殿




◆石塔




◆高橋定右衛門墓



 野中新田与右衛門組の名主であった高橋定右衛門 (文化6年 (1809) ~明治3年(1870)) は、 明治2年(1869) から明治3年(1870) にかけて発生した 「御門訴事件」の首謀者の一人とされ、明治3年(1870) 1月12日に収監され、 厳しい取り調べを受けて2月13日に亡くなりました。
 高橋定右衛門の墓は、 入牢して命を落としたことを憚って建立されず、没後18年を経た 明治21年 (1888)に、妻の死没に伴ってようやく造立されました。 寺子屋の師匠としても信頼されていたため、施主に24名の筆子(寺子屋の子弟) が名を連ねており、筆子塚としての性格も有しています。
 近世封建社会から近代社会への移行期に起きた 「御門訴事件」とは、 当時この付近を所管していた品川県の貯穀制度に反対し、 地域の暮らしを守ろうとして、 小平市域の東半を含む武蔵野新田13か村の農民が県庁へ訴願し、弾圧された事件です。 明治10年代の自由民権運動の先駆けとなる社会的運動でもありました。




◆鳥居





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