2024/01/23 小村田氷川神社


『創建年代は不明である。ただ慶安 - 元禄年間(1648年 - 1704年)に並木村から上小村田村が分村したときに移設されたという記録があることから、江戸時代前期には既に存在していたものと推測される。旧所在地は現在の同市同区桜木町で、当地からは当社の遺物が出土している。「寿福寺」が別当寺であった。寿福寺真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1873年明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により、周辺の10神社が合祀された。 』
氷川神社 (さいたま市大宮区上小町) - Wikipedia






◆大宮市指定文化財天然記念物 上小氷川神社のモッコク



 モッコクは、温暖な地方の山地に生育し、高さが10~15mまで成長する常緑高木です。庭木としても多く植えられます。葉は長楕円形で厚く、滑らかで光沢があります。雌雄異株で、雌株は、夏には枝の上部に小さな白い五弁の花が下向きに開き、直径約一秒の丸い実をつけます。
 実は、秋が深まると赤く熟します。
 樹皮はタンニンが多く含まれるため、茶色の染料に使われ、樹皮を剥いだ材は鮮赤色で櫛や床柱に用いられます。
 上小氷川神社は、むかしから村人の篤い信仰に支えられ、また近所の子供たちの遊び場として親しまれてきました。樹齢が百五十年前後と推定されるこのモッコクも、かつては傍らで少女たちの花いちもんめのメロディーを聴きながら、少年たちの馬乗りの背あてとしてどんなにか活躍したことでしょう。いまは懐かしい風景となってしまいました。
 地域の生活と共に成長してきたこのモッコクを、これからも見守っていきましょう。

目通り  1.84m
根回り  5.70m
枝張り 東3.50m
    西5.70m
樹齢  推定150年







◆神楽殿







◆石塔








◆鳥居







場所はコチラ

2024/01/23 大宮散歩 02 小村田氷川神社/享保16年の庚申塔(上小町)/小村田橋/天満宮・稲荷神社/普門院/八幡神社

前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/210000_1






◆小村田氷川神社

別のページで。
2024/01/23 小村田氷川神社 - ovanの社会科見学







享保16年の庚申塔(上小町)




享保16年(1731年)の庚申塔
この庚申塔は、江戸時代中期の享保16年 (1731) 2月に小村田村(現・上小町~桜木町4丁目)(ここは上小(かみこ)町です)の人々22人が共同で立てたものです。 昔は、60日に一度めぐってくる庚申の日に庚申請を続けたようです。 現在は、毎年11月の申の日に庚申講をひらきます。 地域の人々が与野市一山神社(いつさんじんじゃ)神主を招き塔の前で祭礼を行います。 折り鶴をはじめとする奉納品が絶えることなく、 260年以上にわたり地域の方が大事に守ってきました。
 塔前を通る道は昔からの道で、 塔の側面に「是より東 大宮町道 是より南与野町道 是より西 川越三ち」 と刻まれています。 交通量の多い交差点だったのでしょう。特に大宮氷川神社の十日市には与野方面 川越方面から多くの人が大宮方面へ歩いていったそうです。 西へ続く道は、 国道16号が開通するまでの大宮と川越を結ぶメーンストリートで、 道沿いには江戸時代からの石造物を数多く見ることができます。 新大宮バイパス、 鴨川を越え、 水判土(みずはた)の観音様を経て、 佐知川、 西遊馬(にしあすま)、 荒川へと続いています。








◆小村田橋

下は下は鴻沼排水路(こうぬまはいすいろ)。










天満宮・稲荷神社


稲荷神社


天満宮








◆普門院

別のページで。
2024/01/23 普門院 - ovanの社会科見学







八幡神社

別のページで。
2024/01/23 八幡神社 - ovanの社会科見学







続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/200000

2024/01/23 庚申神社




庚申神社由来記
 當社は、天孫降臨の際道案内をしたと、記紀に記されている猿田彦の尊を祀り、みちひらきの神、幸運の神、 商売繁盛の神、豊穣の神として祀られ、その起源は寛永五年(1793年)の庚申塔として記録されております。 明治の初めころ、祠が建てられ現在の大宮駅構内の一隅に設置されました。その後、祠は国鉄の拡張工事のたびに構内各所に移転させられていましたが、元、祠のあった付近で鉄道事故が多発したことから、明治三七年(1904年) 国鉄職員と地元有志によって、現在地の北、約二〇〇×ートルの位置(現在の金塚公園一帯)に社を建立、安置されました。この頃より社は近隣の人々の深い敬神を集めるようになりました。
 大正一〇年(1921年) 社の老朽化が進んだため、国鉄各業務機関の長をはじめ、その職員と地元有志の尽力によって、本殿・拝殿・神楽殿からなる荘厳な神社を建立、緑豊かな神木にかこまれ地元信者により守護されてきました。しかし、昭和五〇年代當社を含む街区に産業文化センターが建設されることになり、當社は埼玉県と大宮市の保証および地元有志の浄財をもって、昭和六〇年七月 (1985年) 現在地に遷座建立されたものです。
 これを機に、當社は桜木町氏神さとして永久安置の願いを込めて、宗教法人 庚申神社となり今日に至っております。


庚申信仰について
 庚申信仰とは、 もともと教祖もなければ経典・教義等もない信仰で道教の一つでありその大元は中国東晋時代の古書「抱朴子」に記されている「三戸(さんし)説」 によるという。
「三戸」とは人の体内に住む三匹の虫で、頭には「上戸」彭候子(ほうこうし)・腸内に「中戶」彭常子 (ほうじょうし)・下半身に「下戶」命児子 (めいこし)がそれぞれ潜んでいるとされる。
 抱朴子に れば、「人の体内に潜む三戸には形はないが、 実は鬼神や霊魂の類であるという。人が死ぬと三戸は体外に出て好きなことができるので、常に人が早く死ぬのを望み、庚申の夜、人が眠りにつくと体から抜け出し天に上がり人の罪過を天帝(死命神ともいう)に告げる」という。 天帝は庚申の日には門戸を開いて鬼神ちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すがその最たるものが寿命の伸縮であるという。人間誰しも過ちはあることでそれを六十日ごとに報告されて寿命が左右されるのは困ることで、 その為庚申の夜、三戸の虫が体内から出られないように徹夜で過ごすと説くのが庚申信仰の骨子であり特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な行為でこれを「守庚申」 といった。
 この守庚申が日本へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが不明である しかし平安時代に宮中で守庚申が行われていたのは確からしくこれを「庚申の御遊」 と言っていた。 承和元年にと侍臣に酒を振舞い囲碁などして遊んだとあり、その後記等から見て九世紀末から十世紀ころには庚申の御遊は恒常化していてらしい。人々は管弦を奏でたり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、酒を飲んだりして夜を過ごし本来の守庚申と異なり遊興的なものに変わ ていったようである。この庚申の御遊という形で夜を過ごし長寿を願う守庚申の風習は時代が下がると武士階級に広がり、織田信長が庚申待と称し酒宴乱舞の宴を持ったととの記録もありこれを「庚申待」といった。 この庚申信仰が庶民にひろがったのは十六世紀ころと言われている。庶民の庚申待には礼拝対象となる神仏が登場してくる 始めのころは阿弥陀仏など あったが、江戸時代に入ると仏教系では青面金剛が単独の主尊と神道系では猿田彦へと収斂していったという。 いずれに しても庚申待は神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので三戸説など影も形もないほど変貌している。 ようするに庶民の庚申待とは神祀り・先祖祀りが庚申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。
 庚申講の日人々は身を浄め庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱え、その合間に酒を飲んだり話をしたり鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝に入 たという。 古くから鶏が鳴く 夜のあいだ跳梁していた悪霊 邪鬼が退散するといわれ、これが庚申尊掛け軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁である。庚申待が行われていた事を証明するものに「庚申塔」と呼ばれる石碑がある 庚申などを刻んだ文字碑・猿田彦を彫り込んだ石碑で東日本に多いという。 庚申塔とは、庚申縁起に「一座と申すは三年に十八度なり。両三年には供養いたすべし、供養とは道野辺に塚をつき四方正面の蘇東坡を立てて供物をととのえ、・・・・・」とあるように、三年十八度の庚申待を続けた記念に立てたもの、庚申年を記念したもの、特に庚申のご縁年として祝われた七庚申年を記念したもの、庚申構内にめでたいことが起きた記念に立てたものど種々あるという。
 庚申信仰で礼拝対象となっているのは、 仏教系では 「青面金剛神道系では 「猿田彦」というのが大方である。 猿田彦とは記紀神話天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に際し道案内として現国津神である。 その猿田彦を庚申尊とするわけは猿田彦の「猿」が庚申の「申」に通じることもあり、 また猿田彦が瓊瓊杵の露払いをしたことから 禍を払う力があると考えられたためとも、太田神とも呼ばれる猿田彦が田の神・豊穣の神とされ、豊作豊穣の願いを叶えてくれる神と考えられていたともいわれる。






◆御座石



パワースポットについて
 摩訶不思議なパワースポットは、絵馬に願いを書き込むと共に悩み事に関しては、中心にあります御座石に悩み事を念じて手をかざしますと、悩み事が吸い取られ地中深く閉じ込める事が出来ると言われております。
 又、願い事に関して神社本殿にて、二礼二拍手一礼のお参りをして頂く事により道が開ける事となります。
 本来、道開きの神様である、庚申神社ならではのパワースポットを是非お試しください。






◆石碑


石碑について

敬神愛人の碑
紀年 昭和六十年七月二十日
現在の鐘塚公園より当所へ還座した時の記念碑

玉垣社奉納碑
紀年 昭和七年十二月
玉垣(石柱の外棚)の完成記念碑

供養塔
紀年 明治三十七年十二月十日
鉄道事故等で亡くなった人の供養のため当時の大宮駅の有志によって建立

献燈記念碑
紀年 大正十二年六月
現在の鐘塚公園に拝殿、本殿、神楽殿からなる庚申神社が完成(大正十二年)したとき、当時の大宮駅関係者により燈籠が寄進された記念碑、現在は設置されていません。






◆鳥居






場所はコチラ

2024/01/23 大宮散歩 01 竹橋・東京・高円寺氷川神社/大宮駅/そごう/庚申神社/安楽寺/安楽寺/日の出橋/薬師堂


24時間勤務アケで一度家に帰り、午後から人と待ち合わせのため大宮へ。
せっかくなので大宮を散策。






◆竹橋・東京・高円寺氷川神社



一度家へ帰る。



高円寺氷川神社へお参りに。







◆大宮駅

JR大宮駅。




飛翔 ふれあいと参加 平和 像

建畠覚造

『建畠 覚造(たてはた かくぞう、1919年4月22日 - 2006年2月16日)は日本の彫刻家。第二次世界大戦後の日本で抽象彫刻制作を推し進めた第一人者であった。 』
建畠覚造 - Wikipedia







◆そごう



伏見稲荷神社(そごう大宮店)

大宮そごう屋上に祀られていると聞いて来てみたが、屋上広場に出られなかった。








◆庚申神社

別のページで。
2024/01/23 庚申神社 - ovanの社会科見学







安楽寺

工事中のようだ。








◆日の出橋

下は鴻沼排水路(こうぬまはいすいろ)。

『鴻沼川(こうぬまがわ)は、埼玉県さいたま市を流れる一級河川である。荒川水系鴨川の支流である。上流では霧敷川(きりしきがわ)、下流では鴻沼川、また鴻沼排水路(こうぬまはいすいろ)とも呼ばれる。 』
鴻沼川 - Wikipedia









◆薬師堂


石塔


六地蔵


山門

山門右わきにあるのは庚申塔かな?







続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/213000_1

1月15日~1月21日(新所沢・小手指、東京シティガイド検定、環状七号線地下広域調節池

写真
新宿十二社熊野神社@新宿
モンテリマール洋菓子店@小手指
環状七号線地下広域調節池@方南町

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1月15日(月)晴

休み♪

ビデオ・ブログ作業。

3119歩
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1月16日(火)晴

24時間勤務(当務1)

8008歩

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1月17日(水)晴

24時間勤務アケで・・・。

ビデオ・ブログ作業。

8476歩

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1月18日(木)晴

24時間勤務(当務3)

8709歩

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1月19日(金)晴

24時間勤務アケで・・・。

ビデオ・ブログ作業。

5040歩

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1月20日(土)曇り/雨

休み♪

新所沢・小手指散歩 01 新宿十二社熊野神社/新所沢駅/新所沢駅前/地蔵尊/けやき通り団地/旧鎌倉街道標柱/緑町中央公園
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/25/135414

新所沢・小手指散歩 02 所沢市緑町一丁目歩道橋/新所沢公民館/所沢市緑町3丁目歩道橋/愛宕大権現/新所沢コミュニティセンター/中道公園
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/20/230000

新所沢・小手指散歩 03 サンディ/西窪公園/中山公園/モンテリマール洋菓子店/小手指駅/高円寺氷川神社
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/20/233000

14138歩

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1月21日(日)雨

休み♪

細君とデート 方南町/環状七号線地下広域調節池/日高屋
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/27/222856

8050歩

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SONY reader

休み。

2024/01/21 方南町/環状七号線地下広域調節池/日高屋

お休み。
細君とお出かけ。




方南町駅

東京メトロ丸の内線方南町駅







◆環状七号線地下広域調節池 一般公開とコンサート

別のページで。
2024/01/21 環状七号線地下広域調節池 一般公開とコンサート - ovanの社会科見学






方南町日高屋



美味しかった♪

2024/01/21 環状七号線地下広域調節池 一般公開とコンサート


細君と環状七号線地下広域調節池へ。


『延長は4.5km。深さは40m前後。集中豪雨による洪水被害から東京都心部を守るために整備された。妙正寺川善福寺川神田川の3河川の溢れた水を流入することができる。掘りこみ式調節池では、用地確保が追い付かないため、環七の下に長大なトンネルで調節池を建設することになった。
第1期区間は1995年(平成7年)1月に完成し、延長2kmで神田川のみから取水していた。梅里換気所まで完成していたが、善福寺川の取水施設は第二期に建設されている。第二期工事は2008年(平成20年)3月に完了し妙正寺川善福寺川の取水施設が完成。シールドマシンによる掘削が行われた。
3000戸以上の浸水被害を出した1993年(平成5年)台風11号と同規模の降雨があった、2004年(平成16年)台風22号では、浸水家屋は46戸と調節池が効果を発揮し、被害は激減した。
目白通り地下に整備された白子川地下調節池(白子川から石神井川につながっている)とつなげて1本の調節池にするため、環状七号線地下広域調節池の建設が2016年(平成28年)から進められており、2026年(令和8年)に完成する予定。完成により3調節池が連結されると、1時間100ミリの豪雨にも効果を発揮する。
さらに環状七号線を南下し、延伸して東京湾につなげることで、巨大な放水路(地下河川)として機能させる構想もある。
2019年(令和元年)からは、東武トップツアーズ首都圏外郭放水路と当調節池をまわる見学ツアーを実施している。また、東京都建設局は、2019年12月からダムカードテイストのカード「IKEカード」を作成し配布している。 』
神田川・環状七号線地下調節池 - Wikipedia



お目当てはコチラ。






◆パネル展示







◆模型

こちら、実際に水があふれた状況をシミュレーションできた。







◆制御室






◆調整池

入口











◆トンネル







◆コンサート

音が響いて残響がいつまでも残ってとても印象的なコンサートでした。
また聴きたい♪






神田川







◆紹介動画
www.youtube.com


www.youtube.com







場所はコチラ