2017/11/05 01 谷保散歩 01 おたか森稲荷/稲荷大明神/うし塚/滝の院

お休みの日に、一人で国立市の谷保周辺を散歩。
南武線矢川駅で降りて谷保周辺を散歩した後、国分寺に向かう。


スタートの矢川駅



◆おたか森稲荷神社



ここから入っていいの?
って思ったくらい、人の家のお庭の入り口みたいな感じだった。




稲荷大明神

google mapのマークの位置はこの写真の場所で合ってるはず。
これ以上近寄れなかった。




◆うし塚








◆滝の院









 滝の院は、もと滝の坊といって、谷保天満宮別当寺の安楽寺六坊(梅本坊・松本坊・邑盛坊・桜木坊・尊住坊・滝の坊)の一つでした。
 これらの六坊も、今日では、この滝の坊の一坊を残すのみです。なお、滝の院と呼ばれるようになったのが、いつ頃からであったかはつまびらかではありません。
 この滝の院にあった阿弥陀如来坐像は、「血文(ちぶみ)の阿弥陀」といわれ、法然上人ならびに津戸三郎為守(つとのさぶろうためもり)ゆかりの仏像との伝承で知られていますが、現在は、谷保天満宮に保存されております。







続く。

2017/11/05 01 谷保散歩 03 本田家住宅主屋・薬医門

文化財ウィークの特別公開。
ガイドさんが二人いらっしゃって、丁寧に説明してくださった。
ものすごい知識のある方々で、お話がとても面白かった。





建物はだいぶ傾いてしまっているようだ。







ほんの一部しか中には入れなかった
外から写真を撮ることができた。




薬医門





 甲州街道沿いに所在する、谷保村の元名主・本田家の暮らしを今に伝える大型の近世民家です。
 主屋の建築年代は、様式から見ると江戸時代中期に遡ります。柱に打たれた祈祷札には、享保16年(1731)の銘があることから、この時点ですでに建築されていたと考えられます。嘉永2年(1849)頃に増築され、ほぼ現在の形になりました。現存する「喰違型六間」の平面型を持つ建築としては東京都内で最古級の物です。
 薬医門は江戸後期に建てられたもので、元は主屋の正面に建っていましたが、昭和5年(1930)に現在の場所に移されました。桁行2.5m、梁間1.9mの大型の一間薬医門で、旧家の表門にふさわしい規模を誇ります。



薬医門が移築されたのは甲州街道の拡幅工事によるものとのこと。
新選組ともゆかりが深いとのことでいろいろお話をしてくださった。




散歩はまだまだ続く。

2017/11/05 02 国分寺散歩 01 国分尼寺跡

国分寺に長年住んでいたのだが、はじめての場所だった。
国分寺跡は知っていたけど、国分尼寺跡がこんなかたちで整備されていたとは!





それにしても説明板が壊れたり汚れたりでまともに読めない・・・。

↑こんな感じ


お願いですから、なんとかしてください <(_ _)>










再整備するお金がないのかなあ・・・・。
散歩はまだまだ続く。

2017/11/05 02 国分寺散歩 03 名前のわからない祠/姿見の池/武蔵国分寺陸橋/都立武蔵国分寺公園

前回の史跡通りを北上すると西国分寺の駅に出る。
駅から北東に進んだところに姿見の池。
南東に進んだところに都立武蔵国分寺公園がある。



西国分寺駅




◆名前のわからない祠

せめて名前だけでも知りたいなあ。



◆姿見の池











姿見の池は、かつてこの付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。その名の由来は、鎌倉時代に、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという言い伝えによります。またこの池は「一葉の松」の伝承の中にも登場します。源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者で名将といわれた畠山重忠とが恋に落ちました。ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠と平家との両国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。
 更に時代が下って、江戸時代に描かれた「江戸名所図会」にもこのあたりの風景が道興准后(みちおきじゅごう)の歌を添えて登場しますが、その中に姿見の池らしきものが描かれています。
 このような伝承に彩られた姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受け、昔の池をイメージして整備しました。また、ほかに湿地、用水路、水辺林等を、周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林と一体になるよう整備し、かつての武蔵野の里山自然を回復し保全してゆくものです。




国指定史跡 東山道武蔵路







武蔵国分寺陸橋




下に見えるのは中央線の西国分寺駅




府中街道の橋になる。




◆都立武蔵国分寺公園

ちょうど国分寺祭りをやっていた。







昔ちょっぴり仕事でお世話になったお祭り。
雰囲気も当時と変わってなくて懐かしくなった。






続く。

2017/11/05 02 国分寺散歩 04 小林理学研究所/丘の上のAPT(トタンの家)/押切橋/花沢橋/スタ丼の店

このあたりは仕事やプライベートでよく来たところなのだが、一歩路地に入ると知らないところだらけになった。
意識しないとなかなかわからないものだね。
公園からは今まで通ったことがない道を北東に向かい、国分寺駅を目指す。



◆小林理学研究所




RION(リオン)って会社はこの前の道をよく通っていたので見たことがあった。
この中に研究所があることは知らなかった。
小林理学研究所で研究したものを世に出すために(リオン)って会社を作ったとのこと。
なんだか「理化学研究所」に似てる。
テレビ朝日の「じゅん散歩」に紹介されててびっくりした。
中が見学できるようなので、調べて行ってみようと思う。



◆丘の上のAPT(トタンの家)

丘の上にある美術館。
ほんとにトタンでできてるようだ。




丘は急な坂の上にある。



丘の上からは最近国分寺に建ったタワー型の建物が二つ確認できた。




◆押切橋

下を流れている川は野川。






◆花沢橋

下は中央線。



国分寺駅のホームが見える。




◆スタ丼の店

国分寺に住んでいたころは頻繁に通ったお店。



スタ丼の味は変わらなかった。
おいしい♪
もやしが入ってた以前のお汁の方が美味しかった。




<ゴールの国分寺駅
だけど、駅前を散策しちゃった(w







めちゃくちゃ変わってしまった。
これからもまだまだ変わるんだろうね。
あとは中央線に乗ってお家に帰った。
今回もかなり歩いたなあ。

2017/11/05 02 国分寺散歩 02 黒鐘公園/伝鎌倉街道/尼寺北方の塚/伝祥応寺跡/史跡通り

このあたりは国分寺府中市の境目になるかな?
一応住所は国分寺市西元町になってるようだ。



◆黒鐘公園

入ってすぐの所には遊具が沢山あり、子供たちが沢山遊んでいた。





階段があって、のぼってみるとそこはもう山の中だった(汗
もう少し先に行くと武蔵台公園に繋がっているらしかったが、
山登りに来たわけではないので引き返した(w



◆伝鎌倉街道

ここが鎌倉街道の跡。



◆尼寺北方の塚

どうもこの盛り上がってる全体が塚らしい。
すぐ隣に武蔵野線の線路があった。




この塚(盛土遺構)は底面1辺約22m、高さ約3mで、一辺約7mの平坦な頂部を有する方錐体と復元され、周囲の地山層(黒褐色土)を削った土で築かれている。旧来「土塔」といわれ、国分寺に関係するものとされたが、二度に及ぶ調査の結果、中世(14・15世紀頃)において種々の祈願成就を得るために、作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇跡であり、伝祥応寺に関係するものと推考されている。
鉄道拡張工事に伴う第一次調査(1969)では、下層より平安時代竪穴住居跡2軒、盛土内より明銭(洪武通宝、1368年初鋳)1枚、頂部に主体部と思われる粘土敷き硬化面、その付近より梅瓶型瀬戸灰釉瓶子1点や素焼きの土師質土器片数点などが出土している。




この階段をのぼったところにある。




◆伝祥応寺跡




本跡は尼寺伽藍の一部とする説もあったが、近年の調査によって、鎌倉時代末頃に建てられた寺院と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。旧鎌倉街道と言われる切り通しに東面して、土塁(基底部幅3m、高さ1.2m以上)と溝とで東西30m、南北45mの長方形の区画が形づくられている。現存するおよそ15個の礎石の分布などから、東西9m、南北18mほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物であったと推定される。出土品には鉄製風鐸・板碑、銭貨などがある。


読みづらい・・・・・。




この階段の上にある。



◆史跡通り





 天平十三年(西暦741年)に市名の起源でもある武藏国分寺が建立されましたが、元弘三年(西暦1333年)に新田義貞北条泰家との戦いのため武藏国分寺は、惜しくも焼失してしまいました。現在、武藏国分寺の跡地は国の史跡に指定され史跡公園として整備されつつあります。
 昭和48年4月に西国分寺駅が開設されてから、この道路を地元の皆さんが史跡公園に通ずる道路であることから「史跡通り」と呼ぶようになりました。
 この史跡通りは、通過交通の侵入を抑制するとともに自動車の低速化により安全性の向上と違法駐車の排除、車いすの通れる横断歩道など、地区内道路の利便性及び緑化、美化等により生活環境の向上に役立つような道路にしました。また、史跡通りのイメージとして平板舗装は縄文土器を意味し、土器の紋様や武藏国分寺瓦の紋様を排しました。



続く。

2017/11/05 01 谷保散歩 02 谷保天満宮/関家かなどこ跡/歩道橋/常夜灯

国道20号甲州街道)沿いに東へ向かう。
この日記の4つの場所はすべて20号沿いにある。



谷保天満宮

中に入ってお参りしたかったが一度来たことがあるし、七五三で賑わっていそうだったのでやめた。



◆関家かなどこ跡




 関家は、鋳物三家(矢澤、森窪、関氏)の一家と言われ、江戸時代から明治初期まで鋳造を業としておりました。
 梵鐘、仏像等の他に鍋釜などの日用品を製造しており、鋳物三家の銘のある梵鐘には、立川普済寺、府中高安寺、日野牛頭天王(現八坂神社)等があり、谷保山南養寺のものには、安永六年(1777)関氏の銘が刻まれています。
 また、関家には、観世音菩薩座像の鋳型が保存されており、この原形をもとにした仏像は、所沢の薬王寺にありましたが、戦時中の供出により失われてしまいました。
 昭和三十七年の作業場等の発掘調査により面積約150平方メートルの中に鉄滓、鉄片、陶片、煉瓦片等が発見されております。



◆歩道橋

名前はあるんだろうか?
紙の地図を買えば載ってるのかな?
橋名板はなかった。





下の道路は甲州街道



◆常夜灯(秋葉燈)




 この灯ろうは、火難除けの神を祀る秋葉神社に由来する火伏せの守りと、甲州道中の明かりとして建てられたと伝えられています。裏の基壇には「文久三年癸亥四月」(1863)と彫られています。かつては「ジョートミ」と呼ばれた回覧板が各戸に廻り、毎夕交代で灯をともしました。
「あぶらや」の屋号を持つこの屋敷地に保存されており、郷土の暮らしを伝える貴重な文化財です。




続く。

2017/11/05 01 谷保散歩 04 本田道庚申塔/歩道橋/白山神社/武蔵台南公園

本田家住宅の後も東へ進む。
白山神社は歩道橋の少し南。
本宿原踏切は歩道橋の北側。
その後は国分寺に向かって北進する。



◆本田道庚申塔





◆歩道橋






これ・・・・
僕が立ち退きにあった事業だ(w
まだできてなかったのね・・・・。




白山神社

この社があるのみだった。



◆本宿原踏切

南武線の踏切。



◆武蔵台南公園

ここの住所は府中市になっていた。


続く。