2018/04/16 馬喰町散歩 02 金鳥/矢ノ庫稲荷神社/薬研堀不動院/矢ノ倉/御臨幸記念碑/川上稲荷神社

北東方向へ歩いていく。
浅草橋へは向かわず、両国橋付近まで移動する。



金鳥

大日本除虫菊株式会社」というのが社名。
本社は大阪でこちらのビルは東京支店とのこと。



◆矢ノ庫稲荷神社

上記の金鳥さんに隣接。







薬研堀不動院


順天堂大学発祥の地

天保九年(西暦1838年)
順天堂始祖佐藤泰然この地に
和蘭医学塾を開く



講談発祥記念の碑

由来の記
元禄の昔, 赤松清左衛門は浅草見附辺の町辻で 太平記を講じ, 江戸講釈の発祥となった。これが 後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親 しまれ, 安政年間,「太平記場起原之碑」が建て られた。この碑はその後, 当不動院境内に移され 大正12年の関東大震災まで名物となっていた。
 この度, 当不動院講談協会との因縁により, 真言宗宗祖弘法大師一千百五十年御遠忌を記念し, 相はかって茲に新たに建碑をなすものである。



納めの歳の市之碑

 遠く江戸時代の中頃より江戸の街では12月に入ると各地で歳の市がたった。
 歳の市とは門松、しめ縄飾り、羽子板等の正月用品を売る市を云う。かつて東京の歳の市は12月14日15日の深川八幡に始まり、浅草観音神田明神、芝の愛宕神社、平河天神、湯島天神の両天神を廻って最後は28八日の薬研堀不動尊で終り、特にこの市を薬研堀不動尊納めの歳の市と言われた。初めの頃は梅の盆栽が売られ梅の市とも呼んでいた。戦前は、何十軒もの羽子板屋が薬研堀不動院門前に並び、横町には神佛具、臼、杵、まな板、ざる、箒等の迎春用品の露天が出店し当時の千代田小学校の通りには「がさ市」が立ちしめ飾り門松、竹、海老、こんぶ等が威勢よく売られ、身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた。
 先の大戦の頃は、戦火の拡大と共に、一時中断してしまい戦後なんとか復活させたものの時勢に合わずさびれる一方であった。
 時移りようやく昭和40年(1965年)、地元の町会商店会の有志が是非とも江戸以来の伝統行事下町の風物詩をしっかりと後世に残すべきと「薬研堀不動尊 歳の市保存会」を組織して同時に近隣問屋街とも協賛し、衣料品、日用雑貨等を市価の半額で販売する「大出庫市」を併催することとなり、苦心経営の末、最近になってようやく往時の賑わいを取り戻すことが出来た。有り難いことです。
 又、想いめぐらせば、戦前戦後を通じて、本院の大本山である川崎大使平間寺の厚いご加護を一貫して賑わったことも復興への銘記すべき事柄である。
 本年は、大出庫市を併催して丁度30年の節目に当るので、歳の市復活に情熱を燃やした先人達を偲び、この町の今日までの歳の市への過ぎ越し方をこの碑に留め一つの証とする。




◆矢ノ倉



趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しむの余り旧跡として後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。


由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保二年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄十一年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。昭和四十六年四月一日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋一丁目となった。江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。




◆御臨幸記念碑



臨幸記念碑 現代語訳
大正十二年(1923)九月一日に起こった関東大震災に伴う火災により、未だかつてない災いを蒙った帝都東京も、更正の努力7年にして、復興という重大な事業を完成しました。
昭和五年(1930)三月二十四日に、おそれ多くも天皇陛下が復興した帝都をご巡幸されました。
この日、天皇が常用する車を本校におとどめなさり、3階の御座所にてご休憩遊ばれ、復興功労者に直にお会いなされ、復興小学校代表者一同の拝礼をお受けになられました。
本校はまた、親しく方々をご覧になられる光栄を受けました。
この間、実に1時間25分に及び、まことに恐れかしこまり感激に堪えず、臣下である私達は、謹んで天皇の命令を心にとどめて、朝から晩まで一心に励み、それによってその本分を尽くして、天皇のご恩の万一にも報い奉ることを決心しました。
ここに本校後援会で相談をして、天皇が一時乗り物をとどめた場所としての記念碑を建立します。
碑が完成するにあたり、これを彫り刻んで後世に伝えます。





少し離れたところにも碑があった。



千代田小学校・臨幸記念碑・御幸通り

 千代田尋常小学校(以下、千代田小学校)は明治9年(1876年)8月、当時の馬喰町一丁目地元有志の学校建設の出願により、翌10年3月、当時矢ノ倉町15番地だったこの地に新校舎を建築し移転しました。
 大正12年(1923年)9月、関東地方を襲った関東大震災により学校は全焼し、その後東京市の震災復旧事業の一環として、昭和4年に鉄筋コンクリート建の校舎が建設され、翌年には、学校のとなりに校庭と一体的に利用ができるよう、震災復興公園として千代田公園が整備されました。
 昭和18年(1930年)3月、昭和天皇の復興帝都巡行にあたって、竣功間もない千代田小学校にご臨幸されました。これを光栄として同校の後援会を中心に記念碑建設の声があがり、地元有志の寄付、日本橋区役所の補助金に予知、昭和8年に臨幸記念碑が建立されてました。建立された当初は校庭の一角にありましたが、現在は千代田公園内に移設され、当時の記憶を今に伝えています。
 千代田小学校はその後、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲によって崩壊し、昭和20年3月廃校となりましたが、残った鉄筋校舎の骨格を用いて補修され、教育制度改革による中学校となり、中央区立久松中学校、第四中学校を建て現在の中央区日本橋中学校となりました。
 また、東日本橋二丁目1番先から東日本橋一丁目10番(本案内板設置個所)先の区道は、昭和天皇がご臨幸の際に通られたことから、昭和63年度に道路愛称名として「御幸通り」と命名されました。




◆川上稲荷神社






続く。