2018/04/28 浅草橋散歩 06 御蔵前公園/蔵前水の館/蔵前警察署/浅草御蔵跡碑/首尾の松碑/石塚稲荷神社/浅草橋駅

隅田川を南下して浅草橋から帰ろうと思っていたが、まだ見てないところがあったので引き返す。
やや西側を北上したり南下したり(w
相変わらず後半になるとグダグダ。



◆御蔵前公園



◆蔵前水の館

予約なしでは入れないとのことで、今度予約して行ってみる。



◆蔵前警察署

悪いことはしてません(w




◆浅草御蔵跡碑




 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行支配下に置かれた。
 元和六年(一六二〇)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(一七一六〜三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。
 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。
 碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。




◆首尾の松碑






 この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。

 一、寛永年間(1624〜43)に隅田川が氾檻したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

 二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。

 三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。

 初代「首尾の松」は、安永年間(1772〜80)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854〜59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。




蔵前橋

前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。
その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
このお米蔵は、元和年間に大川端を埋め立てて建てられたが、盛時には
数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。
 ここから関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には、浅草文庫という
書庫などもあった。
 蔵前の地は札差など江戸商人発展の地であり、いきや通(つう)のあふれ
た土地柄となってきた。
近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品
の問屋街として、繁栄をつづけてきている。 大震災復興の事業の一環
として、新しい構造の橋が昭和2年(1917年)に完成して、今日に至って
いる。




◆石塚稲荷神社






旧浅草柳橋

 いくつかの町が整理統合され、昭和九年に誕生した。町名の由来は、神田川隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
 柳橋の名は、江戸中期のころから花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んでにぎわっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
 「柳橋」は元禄十一年(1698)に初めてかけられた。その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものである。




浅草橋駅

あらためて良く見てみると、駅は道路を挟んだところにあり、ホームとつないでいるみたいだね。



今回は土曜日のワリにあまり人が居なかった。
GWだからこんな近場に行かないで遠出しているんだろうね。
浅草行を諦めたのはものすごい人だろうと思ったから。
今度平日の午前中あたりを狙って行ってみよう。