2022/02/28 稲荷町散歩 03 蔵前神社/榧寺/蔵前駅/金蔵寺/桃林寺/高尾山浅草分霊院/菊屋橋公園

どんどん南下して都営浅草線蔵前駅へ。
駅周辺を散策し、北東へ向かって散策する。





◆蔵前神社

以前お参りに来たことがある。
2018/04/28 浅草橋散歩 03 川柳発祥の石碑/三守神社/旧朝草桂町/蔵前神社/榧寺/蔵前橋駅/廣澤稲荷社 - ovanの社会科見学



 当社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄六年(1693)八月五日、山城国 (京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請Lたのが始まりです。 以来、江户城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社とLて篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。
 石清水八幡宮御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境內、 拝領の儀は、元禄六西年五月二十七日、高野山興山寺上り屋數拝領つかまつh、同年八月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。 其の節、 境内坪数二千二百七十一坪六合拝領つかまつり候。 其の後、 享保十七子年三月二十八日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年三月二十日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。
 すなわち、創建三十九年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その十二年後の延享元年四月十五日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていまLた。 そして、当社石清水八幡宮別当寺とL ては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
 正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には「蔵前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに教えられました。
 また、天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
 江戸時代も幕末の安政二年(1855)十月二日、江户を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む一万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政四年七月、当社境内に高さ一丈五尺の「宝塔」一基(大施餓鬼塔)を建立し、その十月には開眼供養を行わしめました。
 明治に入ると、その三月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺となりました。そして、成田不動は、明治二年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同三年練馬の東高野山に移されました。
 明治六年八月、郷社に列格し、同十一年十一月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに同十九年四月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
 其の後、 大正十二年九月の関東大震災および昭和二十年三月の戦災により社殿を焼失、 昭和二十二年九月、隣接の|稲荷神社と相殿。北野天満宮とを合併合祀し、同二十六年三月、社号を『藏前神社』と改称、平成七年十月、創建当初から境内神社として鎮座の「鹽竈神社」(陸前国宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
 また、 当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦七年(1757)十月を始め上とL て、安永,天明。寛政。享和,文化,文政と約七十年の間にニ十三回にも及び、 その三大拠点の一つでした。
 とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境內を舞台に活躍Lてぃました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明二年(1792)二月場所七日目、安永七年(1778) 以来、実に六十三連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戶中大騷さとなりました。現在の『縦番付』は宝暦七年十月、当社で開催された本場所から始められたものです。そして、当社で開催された宝暦十一年(1761)十月場所よヶ従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も現存しています。このように当社の境內は相撲熱で大 いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
 かゝる史実に基つ いて、財固法人大日本相撲協会 (現。財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。


古典落語ゆかりの神社

元犬
 蔵前の八幡さまの境内で満願叶って人間になった真白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動はここ

阿武松
 江戸時代勧進大相撲発祥の地
蔵前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺


浮世絵師歌川國安錦 文政七年之春 御藏前八幡宮二於而奉納力持(おくらまえはちまんぐうにおいて ほうのうちからもち)



 この錦絵は、文政七年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1794~1832年)です。
 素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金減」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒材が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、その3日仏用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
 また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保四年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明二年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。
 この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋~蔵前橋の間)にも掲示されています。


福徳稲荷神社












◆榧寺


銅造観音菩薩坐像

 本観音菩薩坐像は銅製、鋳造で、総高が208,4cm、像高は100.2cmである。
 像に刻まれた銘文によると、宝暦年間 (1751~1764)に室生寺の僧、快心の発願によって江戸の鋳物師、粉川市正(こかわいちのかみ)が制作し、当寺の本堂前に安置した。
 粉川市正は江戸神田を拠点に、江戸時代中期から明治時代にかけて活躍した。代々、粉川市正を名乗り宗信、宗次、国信など五代から七代ほど続いたと考えられ、全国に一〇○例以上の作例が知られる。本像を制作したのは、他の作例から粉川市正藤原宗信と推定される。
 また文政十年(1827)に丸山佐助が、本像を修理するために多くの浄財を募り、多川民部が修理を行なった。多川民部(たがわみんぶ)は正徳年間(1711~16)以降に活躍した鋳物師で、神田鍛治町三丁目 (千代田区)に居住していた。遺例はわずかであることから、本像は多川民部の活動の一端を知る貴重な資料である。
 本像は、台座に刻まれている銘文から奉納者、制作者、制作年代などを知ることができる。また、江戸を代表する鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師の技術、活動を知る上での基準となるものである。
 平成二十三年三月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財台帳に登載された。


石川雅望(まさもち)墓

 石川雅望(1753~1830) は江戸後期の国学者狂歌師です。旅館糟屋七兵衛こと浮世絵師石川豐信の子と して生まれ、六樹園、五老斋などと号しました。国学を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といいました。天明年間に狂歌檀に台頭し、狂歌四天王に数えられます。寬政三年、宿屋経営に関連して江戸を一時離れますが、このころ、国学に務め「源註余滴」や「雅言集覧」を著します。文化期には狂歌檀に復帰し、文化文政時代の狂歌界を鹿津部真顏 と二分する勢力となります。真颜の俳諧歌体に対して俗情俗語の狂歌の軽妙さを主張しました。 「 (百人一首)古令狂歌袋(ここんきょうかぶくろ)」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」など の狂歌撰集の他「草まくら」など の紀行文もあります。


お地蔵様など


石塔など


山門











蔵前駅

都営浅草線蔵前駅











金蔵寺











◆桃林寺











◆高尾山浅草分霊院

WEBで調べたのだが詳細がよくわからなかった。
どんな宗教で施設なのかお分かりの方がいらっしゃったら教えてください。
ペコリ(o_ _)o))












◆菊屋橋公園

こちらも以前来たことがある公園。
「川柳ゆかりの地」「旧浅草菊屋橋一・二丁目」の説明版があった。
2022/02/27 田原町散歩 04 菊屋橋公園/孫三稲荷神社/願信寺/本行寺/最尊寺/歓名寺/覚音寺 - ovanの社会科見学











続く。