2022/02/27 田原町散歩 04 菊屋橋公園/孫三稲荷神社/願信寺/本行寺/最尊寺/歓名寺/覚音寺

今度は田原町南西エリアを散策。
やっぱりお寺が多い。




◆菊屋橋公園


川柳ゆかりの地

 柄井川柳(初代)は享保三年(1718)生まれ、通称を八右衛門、名を正通(まさみち)という。柄井家は祖父図書の代から浅草龍宝寺門前の名主を務めており、川柳も宝暦五年(1755)から龍宝寺門前の名主となった。その2年後、宝暦七年(1757)から前句付(まえくづけ)の点者(選者)として活躍している。寛政二年(1790)死去。墓は龍宝寺(天台宗、蔵前4丁目36番7号)にあり、都指定旧跡となっている。
 前句付は出題された前句(七七の短句)に付句(五七五の長句)をつけるもので、川柳が点者を務める万句合(まんくあわせ)は広く人気を集めた。明和二年(1765)、川柳の選句集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』初編の刊行を一つの契機として、付句が独立した文芸となっていった。この文芸は「川柳点」「狂句」などと呼ばれたが、明治中期から「川柳」の名称が用いられるようになった。個人の号名が文芸の呼称となるのは稀有のことである。
 この地域で活躍した柄井川柳の偉業を記念するため、有志の運動により当公園には平成元年(1989)三月に柳が植樹され、平成四年(1992)四月には柄井川柳碑が建立された。



 本町は、昭和十一年(1936)年に江戸・明治時代からの浅草栄久町の北半分、同阿部川町の南半分、同森下町の西隅を合わせ一丁目となり、同栄久町の北部、同阿部川町の北半分、同南松山町の東側大部分を合わせ二丁目として起立した。
 町名の由来は、この地の中央部を南北に流れていた新堀川の橋である菊屋橋にちなんで付けられた。菊屋橋は、下谷と浅草を無図部、江戸時代以来の主要道路の新寺通りを渡す橋だった。新寺通りは現在の浅草通りである。
 浅草栄久町は、明治二年(1869)に浄念寺、東漸寺、天台龍寶寺、善照寺、常福寺、実相寺、本法寺、浄土龍寶寺の八か寺の門前町を合わせ起立した。
 浅草阿部川町は、元禄九年(1696)、それまでの幕府下級官吏の大縄拝領地から代官細井九左衛門の支配地となり、その翌年誕生した町である。町名は、この地の地主が皆現静岡市内の安倍川から移ってきた者であったため付けられた。










◆孫三稲荷神社

孫三(まごぞう)稲荷



この付近は、「御府内備考」によると、慶安年中(1648~52)、川村某が駿河國安倍川(現在、静岡県静岡市域を中心に流れる、一級河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移したことにより安倍川町と称していた。
 孫三稲荷は、当地に伝わっている由来によると、天正年間(1573~92)、徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があり、実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正十八年(1590)関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村某の手により江戸にもたらされ、慶安年中当地へ移したという。この伝承は、江戸へ招来した年も「御府内備考」と異なるが、「町方書上」に、慶安に安倍川より移安したことが記されており、江戸初期には地域の鎮守として信仰を集めていたことが知られる。
 「町方書上」にはまた、当町に店借していた修験者の善明院という人物が「正一位孫三稲荷大明神」を司っており、神像は木造で長さ三寸(約十センチメートル)であったと記されている。
 現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災東京大空襲などによって、記録や社殿を失ったが、昭和二十六年、当町会(安倍川町・菊屋橋町会)によって、社殿が再建され、毎年三月八日に例祭が行われている。











◆願信寺











◆本行寺










◆最尊寺










◆歓名寺










◆覚音寺











続く。