2022/02/27 田原町散歩 03 警視庁菊谷橋庁舎/東本願寺/菊屋橋跡/宗圓寺/永見寺/威光院/常福寺

田原町南側の南側エリアを散策。
お寺が多いね。




◆警視庁菊谷橋庁舎








東本願寺

こちらはまた今度来た時にお参りさせていただきます。








◆菊屋橋跡



 現在のかっぱ橋道具街通り・新堀通りには、江戸時代から昭和八年(1933)まで、新堀川と呼ばれた水路があった。明暦(1655~58)以後に開削され、北方にあった農村(千束村・竜泉寺村・坂本村)からの排水に用いられた。
 菊屋橋は、江戸時代の新寺町通り(現在の浅草通り)が新堀川を渡る箇所に架かっており (現在の菊屋橋交差点)、周辺の寺院が共同で管理していた。寺院組合橋という名があったが、 近くに菊屋という菓子屋がかあったため、 菊屋橋と呼ばれるようになったという。
 明治時代以後、当地には馬車鉄道や路面電車が敷設され、菊屋橋の名は広く知られた。関東大震災の後、昭和八年(1933)に新堀川が暗渠となり、菊屋橋が撤去された後3、その名は多く用いられた。昭和十一年(1936)から同三十九年(1964)までは、菊屋橋一・二丁目という町名も存在し
た(現在の寿一・二丁目、元浅草三・四丁目の一部)。現在も菊屋橋の名は、交差点・バス停留所・交番・公園・町会などの名称に用いられている。



菊屋橋交差点









◆宗圓寺


お地蔵









◆永見寺









◆威光院










常福寺


津軽多膳貞升

『寛政11年(1799年)7月、父・津軽貞栄と兄・永孚の蟄居に伴い家督および知行800石を継いだ。後に江戸で700石を加増され、1500石となっている。文政、天保と手廻組頭用人兼帯とし、藩政に功労があった。天明3年(1781年)、飢饉への対策を何もしない家老・森岡元徳へ農民の救済もしくは家老の辞職を迫った。元徳がそれを拒むと、江戸の藩主・津軽信順に直訴するとなじり、脅した。しかし、用人大谷津七郎や元徳妨害工作により、結局面会できず、直訴は失敗した。
天保3年(1832年)には久保田藩から救済米の引き出し交渉に成功するが、翌天保4年(1833年)笠原皆充の讒言により、800石に減らされ蟄居させられた。天保10年(1839年)、藩政に復帰した。 』
津軽貞升 - Wikipedia


六地蔵









続く。