2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 03 旧小菅御殿石灯籠/小菅御殿と江戸町会所の籾倉/小菅稲荷神社/松原児童遊園/小菅銭座跡/草津湯/小菅水再生センター

東京拘置所南側エリアをさらに南下。
綾瀬川と荒川の間をウロウロする。




◆旧小菅御殿石灯籠



 現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、 将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。 その
後、元文元年(1736) 7月、伊奈氏屋敷内に小管御殿(千住御殿)が建てられました。
 寬政4年(1792)小管御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小管御囲地となりました。御囲地の一部は、江戶町会所の初蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小管県庁・小管煉瓦製造所・小管監獄が置かれました。
 旧小管御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縱角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。 もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確ではありません。 旧御殿内にあったとされるこの石燈龍は、昭和59年(1984)に手水鉢。庭石とともに現在地に移されました。



こちらの方はだいぶ文字が削れてしまっていて判読することができず、文字化を断念。







◆小菅御殿と江戸町会所の籾倉

 東京拘置所の広大な土地は、寛永年間 (1624~1643年)徳川家光が時の関東群代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(1792年)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟時の御善所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
 寛政六年(1794年)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(1833年)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は、大飢催や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
 深川新大橋の東請詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
 小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。








◆小菅稲荷神社



文字化を断念です・・・。








◆松原児童遊園







◆小菅銭座跡

 小菅銭座は寛政6年(1859)8月江戸金座の直轄で、幕末の財政窮乏と銅相場高騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は江戸時代初期には伊奈氏の下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷をたどった一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
 万延元年(1840)12月には、前例のない鐚銭といわれる粗悪鐚銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1807)にその役割を終えました。
 今その頃の様子を示すものはほとんど残ってはいませんが、昭和25年(1950)5月までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の史跡として今に伝えています。








草津

銭湯♪








◆東京都下水局東部第二下水事務所小菅水再生センター















続く。