2021/07/25 小菅・綾瀬散歩 04 旧綾瀬川流路/綾瀬排水機場/荒川放水路橋梁/中の橋/ミヨシ油脂/正覚寺/小菅ジャンクション

綾瀬川と荒川の間をウロウロしたあと綾瀬川に沿って北上。




◆旧綾瀬川流路

水門があるということは、いちおう綾瀬川とつながっているということかな?



遠くに見える鉄橋は京成線綾瀬川橋梁。









国土交通省綾瀬排水機場



国土交通省の施設があったり東京都の施設があったりよほどの場所なんだね。









東武伊勢崎線荒川放水路橋梁

遠くに東武線の橋梁が見えた。









◆中の橋

下は綾瀬川





反対側にはいかず、写真撮って引き返す。









◆ミヨシ油脂株式会社

聞いたことがある名前だと思ったらやっぱり東証一部上場企業だね。

『ミヨシ油脂株式会社(ミヨシゆし)は、食用油脂、工業用油脂製造を行う会社。 』
ミヨシ油脂 - Wikipedia









◆正覚(しょうかく)寺

この角度でしか撮れなかった・・・。


薬師堂


大師堂


県立小学校の跡

 明治2年(1869)小菅県庁において設立した、学校発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡で、当寺はその校舎の一部にあてられた場所です。


正覚寺とげぬき地蔵と日本最初の公立学校

 真言宗正覚寺は、常照山阿弥陀院と号し、本尊阿弥陀如来は慈覚大師の作といい、厨子の銘に「本尊慈覚大師作、法印甚求、宝永三年三月入仏厨子宝光、正徳四甲午正月法印甚宥」とある。 草創年代は定かではないが、 開山和尚安心の亡くなったのが文禄元年(1592)だから、 おそらく室町末期の創立と推定される。
 この寺には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が、堂内に安置されている。この地蔵は、以前に旧水戸街道の北側にあったものを、 大正四年荒川放水路の開さく工事で当寺に移されたものである。
「とげぬき」は罪抜からきたもので、 当時付近の小菅監獄から罪を終えての帰途、この石像に願をかけると罪が抜けるというので、 いつしか「とがぬき」が「とげぬき」になったのだという。
 このお地蔵様にはもう一つ「きられ地蔵」の伝説がある。元禄のころ夜になると、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂がたち、これを参勤交代でこの道になじみの水戸黄門こと徳川光圏が、一刀のもとに地蔵の首を切り捨てたが、首はそれ以来行方不明となり、 正覚寺で新しい首をつけたが、のちに寺の近くで掘り出されたので、 寺では別の箱にお首を納めて供養している。いくら剣術の達人でも、果たして石の地蔵の首がコロリと落ちるほど切れたかどうか疑わしい。 しかし地蔵堂の水舎に元禄年間の銘があり、水戸黄門となんらかの関連があったとも思われる。
 また、 正覚寺にはもう一つ珍しい史実がある。
明治二年(1869年 )この地に小菅県庁が置かれた。県庁では新政府の出した府県学校取調局の令に基づき、早速同年七月庁舎に近い正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という公立の学校を設けた。おそらくこれがわが国最初の公立学校であろう。 始めは県庁の役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学もゆるし、文明開化の新しい教育につとめたが、 民間側の入学者は稀だったという。 この仮学校はお隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、 明治四年十一月廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治六年四月学制発布で青砥学校(区立亀青小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立されたので、 生徒の大半が
両校に転属された。
 次にのせる「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、その内容は旧態依然とした封建制そのものであったことが、うかがい知れる。

当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六の日 定休 四月十九日 会議に付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
  諸役人出席下民といえども聴を許す但し朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未刻ヨリ牧民志告心鑑
  庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし 但し朝前同断
四 九ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
  庁内之諸役人壮年之ものハ必ズ出席すべし老幼之輩ハ勝手次第 但し朝前同断
五 十ノ日_ 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話 
  |御用村用等ニ而小菅表へ出合居候村人小前ども必ず出席すべし
  若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、 正覚寺ニ止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老幼とも出席聴聞する事を欲す
  知事判事之內取締として時々出席すべし其他諸史聴聞勝手たるべし但し朝前同断


小菅正覚寺念仏結衆地蔵像



 この地蔵像は、念仏結衆を願 う兵左衛門と 同行衆によって建立されたものです。
 光背の向かって右には「寛文元天 (1661) 辛丑霜月 廿八 日六親菩提施主敬白」,左には「念佛結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」 と記しています。
 17世紀中頃以降は、 「同行集団」とあらわすこ とが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」 と 「同行」 が併記されています。


山門









小菅ジャンクション

こちらをくぐって反対側へ。










続く。