西永福周辺エリアから北東に向かって歩く。
当宮は古く、江戸八箇所八幡のうちに数えられた大社です。大宮とよばれるのは、往古から広大な境内をもつ社であったことから、社名とも、また鎮座地の地名にもなったといわれています。
祭神は応神天皇(誉田別尊)、仲哀天皇(帯仲彦尊)、神功皇后(息長足比売尊)の3神で、創立については、当宮の縁起(天正十九年(1591)奥付)に、「平安時代末、源頼義が奥州へ出陣の際、当地で白雲が八つ幡のようにたなびく瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得ることができた。この報賽のため康平六年(1063)、この地に源氏の氏神である八幡神を祀ったのが、当宮の起源である。」と記されています。
南北朝時代の貞治元年(1362)十二月、大宮の社僧が紀伊国(和歌山県)熊野那智大社に納めた願文の写し(米良文書)があり、これによると、その頃から当宮に奉仕する社僧のいたことがわかります。徳川時代には代々朱印地30石を与えられて、大名や武士たちからも武勇の神として崇敬されてきました。
昭和四十四年(1969)には、善福寺川に面する旧境内地から、首長の墓とみられる方形周溝墓三基が発掘されました。また対岸の松ノ木台地からも竪穴住居あと群や、縄文・弥生・古墳時代の各期にわたる遺物が数多く出土しているので、当宮の周辺は、古くから集落がいとなまれ、その中心地として重要な地域であったことがうかがわれます。
社宝には、豊臣秀吉の制札・由比正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武術練達祈願の額などがあります。
方形周溝墓出土遺物
現在、大宮八幡宮清涼殿並びに杉並区立郷土博物館に保管・展示されている遺物は、方形周溝墓(弥生時代の首長クラスの人の墓)内から出土したもので、壺形土器5点、台付土器1点、勾玉1点、ガラス小玉12点にのぼります。土器類は弥生時代後期のもので彩色・精緻な文様が施文され、区内唯一の出土例である玉類は、墓の主体部付近で発見されたこともあり、被葬者が生前装着したまま埋葬されたことを物語っています。
木村常陸介 前田孫四郎 制札
豊臣秀吉は天下統一に際し、小田原北条氏を包囲中、その支配下にあった八王子城を攻撃し、天正十八年(1590)六月二十三日に落城させました。当宮の宝物殿に納められている制札は、その翌天正十八年(1590)六月二十四日、豊臣家臣木村常陸介・前田孫四郎利長の両部将名で当宮に発給されたもので、境内での殺生、人馬の通行、竹木伐採を堅く禁じています。本制札は、豊臣軍によって当宮の保安がはかられたことを示すものとして、又区内に残る江戸時代以前の唯一の制札として、貴重なものです。
木造随身坐像
江戸時代中期の大仏師「左近」のさくであるこの木造随身坐像は、もともと拝殿の階段脇に安置されていましたが、現在は当宮の宝物殿に保管されています。本像は若者像と老人像とで対をなし、共に全体的に厚く着色が施され、白色の顔料に朱の唇を描く顔面や衣服の絵柄文様もよく残り、保存も良好と言えます。
また、若者像の体内からは製作年、作者・願主を記した銘板が発見され、本像を製作した背景もよくわかります。美術・技術的にも優れ神社関係の彫像としても貴重な資料です。
大宮天満宮
大宮天満宮は菅原道真公をお祀りし受験合格・学業成就の神として信仰が篤く、1月25日は初天神、特に7月25日の納涼天神祭には凡そ200基の書画行燈が点灯され、「時間をはずした日の祭事」として和太鼓の奉納演奏もあり、近年多くの参拝者で賑わい、夏の風物詩となっています。
東照神君徳川家康公を祀る東照宮は徳川幕府や武門の崇敬篤く別格の末社とされてきました。
天祖神社は”お伊勢さま”をお祀りし、室町時代以降の当宮と伊勢の神宮との強いつながりを示す神社です。また三崎神社と山神社はこの大宮台地の地主神をお祀りする神社で境内社の中では最も古いやしろです。
水は生きる上で最も大切なもの、常に敬神と感謝の念をもって御神水を. お受けになり、ご神徳を戴かれますよう. お祈り致します。
大宮遺跡
善福寺川の南崖上に位置するこの地は、大宮遺跡の発掘地です。大宮遺跡は、都内で初の方形周溝墓が発掘されたことで有名です。
方形周溝墓は「方形の四方を溝で囲んだ土器時代の古代人の墓」で弥生時代末期のものとされます。昭和四十四年(1969)の発掘作業では3基の周溝墓が発見され、そこから土器や勾玉、ガラス玉等が見つかりました。
特に壺形土器の配列や底に穴をあけた形状(穿孔土器)からこの遺跡が住居跡でなく、尊貴な者(族長=祖神)の墓域、祭祀遺跡であることが判明しました。
当時、善福寺川沿いの低地では水田工作が行われていた模様です。そして対岸の松ノ木遺跡には、多くの竪穴式住居跡が発見されています。つまり川や田んぼを挟んで住居と祭りの場を厳密に区分するという観念が当時から存在していたことを示しています。
この遺跡は、大宮八幡宮の旧社殿地ともほとんど重なり、この一帯が聖域とされていた古代からの信仰がのち大宮八幡宮の創建につながったと思われます。
大宮遺跡は、発掘後埋め戻されましたが、出土品の一部は当宮清涼殿に展示してあります。
大宮八幡社叢(しゃそう)
大宮八幡宮の参道や社殿を取り囲む社叢です。昭和八年十月に指定されたもので、指定当初は、マツ(クロマツと思われる)やスギの見事な社叢がみられたとされます。
現在は、ヒノキが最も多く、ヒノキは本殿裏の樹林地に集中しています。全体としてはクスノキやシラカシなどの常緑広葉樹、ソメイヨシノなどの落葉広葉樹の広葉樹の社叢へ変わってきています。しかし、隣接する和田堀公園と一体となった樹林帯は貴重な空間となっています。
社叢とは、神社の森。神社に茂っている木々。
鎮守の森
当大宮八幡宮は附近から祭祀遺跡が発掘されるなど神代より聖地に相応しいところで、古くは多摩の大宮と称されました。その武蔵野の昔を想望して作られた句。平成元年作。阿波野青畝(あわのせいほ)明治32年生。
俳誌「かつらぎ」主催者。
神楽殿
仲門
後ろにある銀杏右が男銀杏で左が女銀杏とのこと。
今度は秋に来てみよう!
境内MAP
改めて境内のMAPを見ると境内社がいくつかある。
やはりもう一度来なければだね!
◆馬頭観音
昭和三年、陸軍将校が巡視に訪れた際、乗ってきた白馬がこの地で足を骨折し急逝しました。この白馬は宮春号と称し、さる宮家より陸軍将校が下賜(かし)された名馬で、この将校の意思をくんで、この地の旧家五本木鎌吉氏が供養塔を建立し奉(たてまつ)りました。
また、交通事故の多い交差点のため交通安全祈願、近隣諸氏との絆を深めるために昭和五十六年に馬頭祭世話人が発足し、翌五十七年より第一回の馬頭祭が斎行され、今日に至っております。
この前の道は、大宮八幡宮の参道です。
参道に面して、「鞍掛の松」があります。
この松の名称は、平安時代の武将・源義家(1039~1106)が、奥州遠征の折、この松の枝に馬の鞍を掛けた、という伝承に由来します。この伝承は、『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)にも紹介されています。
松そのものは代替わりしていますが、こうした伝承が地元に長く語り伝えられてきたことは、この地の歴史の古さを物語るものといえます。
◆大宮八幡宮参詣道
◆庚申塔
◆済美山運動広場
だいぶ前に来たことがある。
2015/06/10 杉並区立郷土博物館 - ovanの社会科見学
分館にはちょくちょく行っている。
2015/07/15 part2 杉並区立郷土博物館(分館) - ovanの社会科見学
2018 /09/09 杉並区立郷土博物館分館 企画展「杉並銭湯いまむかし つながる人、まち」 - ovanの社会科見学
2018/09/15 杉並区立郷土博物館(分館)「銭湯図解 作画LIVE」 - ovanの社会科見学
続く。