2022/01/29 中野本町散歩 06 大宮八幡神社

情報量が多いので1ページにした。



◆拝殿

何度か来ている。

2019/04/04 善福寺川散歩 02 大宮八幡宮/馬頭観音/鞍掛の松/大宮八幡宮参詣道/庚申塔/済美山運動広場/杉並区立郷土博物館 - ovanの社会科見学

2019/08/01 永福町散歩 03 和泉熊野神社/和泉貴船神社/大宮八幡宮/松ノ木遺跡/高射砲陣地跡地 - ovanの社会科見学



 大宮遺跡の存在でも明らかなように、この大宮台地は古代より神霊の坐す聖域でありました。
 社伝によれば第70代後冷泉天皇の時、天喜年中(1053~57)鎮守府将軍源頼義公が奥州兵乱平定の途次、この地で長男の八幡太郎義家等とともに白雲八ツ幡の瑞祥を見て戦勝を祈願され、平定後の康平六年(1063)源氏の祖神である京都・石清水八幡宮八幡大神を勧請、当宮が創建されました。
 以来多くの人々の崇敬が篤く神域も殊の外宏大でありましたので武蔵国の三大宮の1つ、「多摩の大宮」と呼ばれていました。
 源氏一門の徳川家康公も江戸開府にあたり当宮にも参詣、以降歴代の将軍より崇敬され朱印三十石を賜りました。
 御祭神親子三神の御神威により子育(安産)守護、家庭円満、厄難除け、諸願成就の神として信仰が篤く、近年は、神々の記憶とわが国の歴史へ誘う、東京の重心「東京のへそ」「子育厄除八幡さま」と讃えられています。
 なお大宮、方南、和田、松ノ木の各氏子地域の氏神様でもあります。



大宮八幡宮の参道や社殿を取り囲む社叢です。昭和八年十月に指定されたもので、指定当初は、マツ(クロマツと思われる)やスギの見事な社叢がみられたとされます。
 現在は、ヒノキが最も多く、ヒノキは本殿裏の樹林地に集中しています。全体としてはクスノキシラカシなどの常緑広葉樹、ソメイヨシノなどの落葉広葉樹の広葉樹の社叢へ変わってきています。しかし、隣接する和田堀公園と一体となった樹林帯は貴重な空間となっています。
※2019/04/04 撮影

社叢とは、神社の森。神社に茂っている木々。
鎮守の森


文化財

方形周溝墓出土遺物
 現在、大宮八幡宮清涼殿並びに杉並区立郷土博物館に保管・展示されている遺物は、方形周溝墓(弥生時代の首長クラスの人の墓)内から出土したもので、壺形土器5点、台付土器1点、勾玉1点、ガラス小玉12点にのぼります。土器類は弥生時代後期のもので彩色・精緻な文様が施文され、区内唯一の出土例である玉類は、墓の主体部付近で発見されたこともあり、被葬者が生前装着したまま埋葬されたことを物語っています。

木村常陸介 前田孫四郎 制札
 豊臣秀吉は天下統一に際し、小田原北条氏を包囲中、その支配下にあった八王子城を攻撃し、天正十八年(1590)六月二十三日に落城させました。当宮の宝物殿に納められている制札は、その翌天正十八年(1590)六月二十四日、豊臣家臣木村常陸介・前田孫四郎利長の両部将名で当宮に発給されたもので、境内での殺生、人馬の通行、竹木伐採を堅く禁じています。本制札は、豊臣軍によって当宮の保安がはかられたことを示すものとして、又区内に残る江戸時代以前の唯一の制札として、貴重なものです。

木造随身坐像
 江戸時代中期の大仏師「左近」のさくであるこの木造随身坐像は、もともと拝殿の階段脇に安置されていましたが、現在は当宮の宝物殿に保管されています。本像は若者像と老人像とで対をなし、共に全体的に厚く着色が施され、白色の顔料に朱の唇を描く顔面や衣服の絵柄文様もよく残り、保存も良好と言えます。 
 また、若者像の体内からは製作年、作者・願主を記した銘板が発見され、本像を製作した背景もよくわかります。美術・技術的にも優れ神社関係の彫像としても貴重な資料です。


境内MAP











若宮八幡神社/白幡宮/御嶽榛名神社



 若宮八幡神社八幡大神応神天皇)の御子神仁徳天皇がお祀りされていますが、若宮は別宮(わけみや)でもあり、八幡大神の荒御魂をお祀りしているともいわれています。
 白幡宮は当宮を創建された源頼義公とその子の八幡太郎源義家公のご神霊がお祀りされておます。
 御嶽榛名神社は当宮氏子内の御嶽榛名公の人々によって崇敬されてきたお社です。


昭和八年銘石造狛犬

 この拍犬一対は『江戸名所図会』にも描かれており、もとは本殿前に安置されていたが、昭和四〇年に現在地に移された。
 台石は三段から成り、阿,呼両像とも上段正面に「奉献」、裏面に「明和八辛卯年冬十一月吉日 願主岩崎所左衛門」と銘が刻まれており、奉納年(1771)と願主名が確認できる。
 また、屋外に安置されている狛犬では区内で最も古いものである。豊かな体躯と温和な表現が、近世中期の狛犬の特色を示すものであると同時に、この地域の文化社会組織などを物語る資料として貴重である。



鳥居の脇に見えるのが上記の狛犬である。











◆大宮稲荷神社/大宮三宝荒(さんぽうこう)神社/白山神社



大宮稲荷神社は衣食住の神として信仰され、特に当宮と姉妹友好神社の宮城県竹駒神社が合祀されています。毎年初午祭に氏子・崇敬者により朱幟が奉納されます。
大宮三宝荒神は竈(かまど)の神、私どもの生活守護の神として崇敬も篤く、歳末には「大宮三宝荒」様の神札を多くの方々にお受け頂いております。
白山神社の御祭神は白山比咩神(菊理媛(きくりひめ))で五穀豊穣、生業繁栄、開運招福のご神徳があります。












◆記念碑

八幡宮八幡神社勧請より数え九百年に当るを期とし昭和三十八年(西暦1963年)元禄十年(西暦1607年)より弐百六拾有余年を経たる社殿の大改築及び参集殿・宝物殿・幼稚園舎新築・神輿庫その他境内の諸整備を行い大宮八幡宮氏を編纂し、有史以前に遡る八幡神初源の相を世に問い、鎮座九百年記念事業とし御神徳の高揚を期す。ここに事業の完成を記念し之の碑を建つ











◆仲門と笹の輪











源義家公 お手植松跡


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 ここは、八幡太郎源義家公お手植松の遺跡であります。
 寛治元年(1087)、後三年の役にて、奥州平定の帰途、義家公は戦捷報賽のため当宮に参拝され、千本の若松を神蜮に植樹されました。
 享保年間(1716~1736)新井白石は「大宮の松の如くに長大に見事なるものにて、しかも数多きは見及ばぬ事。」と感嘆しておりますが、往時の巨松(目通り周囲5.45m)も今は枯損して面影もなく、その遺株に植られた松に往昔が偲ばれます。
 尚義家公縁の「鞍掛の松」が表参道門前町商店街の中程(旧参道入口)に在ります。











◆神輿庫



  ここに陳列されている神輿は、当宮の秋の例祭(9月15日)の折に、氏子内14ヶ所の神幸所(みきしょ)に奉安されて町を巡行する町内神輿です。
子供神輿も含めてその数29基。この中各地区を代表する神輿7基は例祭当日夜壮観な合同宮入りを行います。


神輿庫の由来

子供の御神輿は、対象の平和博覧会に出品されたものであり大御神輿は、同型のものを大正末期に造つたものであります。製作者は、八丁堀の名神輿師秋山三五郎氏型は「八つ棟」型と稱し、大きさ参尺 高さ八尺二寸重さ壱百五拾貫であります。
秋山三五郎氏の三代目の言によれば、現在では、到底制作できぬ文化財的なものであるとのことです。大宮八幡宮九百年祭より神輿庫に常時安置し、参拝者の稱讃の的となって居ります。
 和田睦会の沿革
現在の和田町は、東京府豊多摩郡和田掘之内村大字和田と呼ばれた。対象の初期より農村であった村の青年等が樽神輿を造つて秋祭を祝ったのが起源で睦会が結成された。
大正の中期になり本格の御神輿を造る機運が高まり、数年間積立して資金をつくり、大正末期に宿願の大神輿が出来た、年毎に賑やかな祭礼が催されるようになり、今日に至った。
大東亜戦争の末期に献納の話が出たが、此の神輿は文化財にも等しい立派なものであると云う本会からの建議により献納を免れたと云う由緒ある御神輿である昭和四十五年大修理を行い之を期に氏子の皆様の力強い御支援と御協力とにより隆盛の一途をたどりつつあります。尚之を期に歴代会長の功を皆様に伝え之に記す。











◆共生の木

共生(ともいき)の木。



 榧の木に 犬櫻が寄生しています
 古代よりの武蔵野の社叢(都指定天然記念物)の中で異なる二つの木が一本の幹で結ばれ扶け合い生きづいている姿は、将に共生(国際協調、宗教協力、相互扶助、夫婦和合等)を示唆しているご神木です。











菩提樹



 松平秀康(1574~1607)は、徳川家康の次男として生まれ、始めよと見秀吉の養子となり結城の姓を授かる。後に関が原の戦功により越前藩主に封ぜられ、松平秀康と名のる時に清涼院を側室に迎える。
 清涼院は当宮を崇敬し、ご参拝の折に、この菩提樹を植樹されたと伝えている。











◆宝物殿

正面から写真が撮れなかった。











◆大宮八幡沿革碑



大宮八幡神社沿革碑 公爵徳川家達篆額(徳川家第16代当主)
武蔵の國、豊多摩郡和田堀内村に祀有り。曰く、大宮八幡。境域は廣潤に而て、老杉の森は、雲霄を列勢す。相傳るは、源頼義が東征の次、武蔵阿佐谷に雲氣起ち、其の上に白幡の如きが揺れ曳けり。頼義謂く、是れ八幡の神の示す吉兆也と。進軍を遂げ、賊を平し、乃に祠を創る。此の時、康平六年(1063)也。後に義家、祠を更修し、封戸を定め、寶仙寺を建つる。別當と為し、僧坊12を置き、鹿島より松の苗、千株を移植す。
鎌倉幕府の賽を以って、建増し之を修す。輪奐を窮むを以って、永享元年(1429)に、寶仙寺を中野郷に移し、一宇を営む。祠の旁に大宮寺と名し、以って別當に充てる。
永禄中に、上杉・北條の二氏、干戈を交へ、此祠・僧坊盡く兵燹に罹る。天正二年(1574)に有た、大石信濃守は、重ねて之を建つる。
徳川氏は、初たに、社領30石と定め、朱印状を付す。且つ、躑躅を御手洗川の上に多く栽す。是より歴世尊崇し、大将軍は必ず親しく参拝す。頃者、村の有志の者、胥に謀りて、社殿の繕ひ、歩道を修し、櫻樹・数百章を列楦す。老杉と相錯りて、幽遂浄潔にして、人に益々崇敬の心を起さしむ。
因って碑を樹て、以って沿革を記せんと欲して、人を介し余文余謂を請うは、此の擧なり。以って人心を淳し、流俗を振し、国家に崇神の旨を深め合いて、其れ、世に教ふるに功有ること、大なる矣。乃ち喜びて、詞を繋ぎて曰く。
斯に屹す古河は 源氏が創に自る 鎌倉江戸と 世に歴り禋祀す
廟貌は茲す新にして 神威は顯に赫く 碑は樹て銘を勒み 以って因革を記す











◆力石



 力石は、江戸時代の頃より、氏子や近村の若者達が当宮に集い力競べの神事をする為に奉納されるもので「担(かつぎ)石」又は「磐持(いわもち)石」とも呼ばれています。この力石は明治・大正時代に奉納されたもので現在重さ27貫(101キログラム)から最大50貫(187キログラム)までの力石14個があります。











◆夫婦銀杏

門左が男銀杏、右が女銀杏。











百度











◆阿波野青畝句碑

阿波野青畝(あわのせいほ)



大宮八幡宮は附近から祭祀遺跡が発掘されるなど神代より聖地に相応しいところで、古くは多摩の大宮と称されました。その武蔵野の昔を想望して作られた句。平成元年作。阿波野青畝(あわのおせいほ)明治五32年生。俳誌「かつらぎ」主催者。

『阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は奈良県出身の俳人。本名は敏雄[1]。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称された。「かつらぎ」主宰。』
阿波野青畝 - Wikipedia











◆多摩清水社

※今回写真を撮らなかったので2019/04/04の写真



水は生きる上で最も大切なもの、常に敬神と感謝の念をもって御神水を. お受けになり、ご神徳を戴かれますよう. お祈り致します。
※こちらも2019/04/04の写真











◆赤門(北神門)












◆振武殿











◆大宮遺跡



 善福寺川の南崖上に位置するこの地は、大宮遺跡の発掘地です。大宮遺跡は、都内で初の方形周溝墓が発掘されたことで有名です。
 方形周溝墓は「方形の四方を溝で囲んだ土器時代の古代人の墓」で弥生時代末期のものとされます。昭和四十四年(1969)の発掘作業では3基の周溝墓が発見され、そこから土器や勾玉、ガラス玉等が見つかりました。
 特に壺形土器の配列や底に穴をあけた形状(穿孔土器)からこの遺跡が住居跡でなく、尊貴な者(族長=祖神)の墓域、祭祀遺跡であることが判明しました。
 当時、善福寺川沿いの低地では水田工作が行われていた模様です。そして対岸の松ノ木遺跡には、多くの竪穴式住居跡が発見されています。つまり川や田んぼを挟んで住居と祭りの場を厳密に区分するという観念が当時から存在していたことを示しています。
 この遺跡は、大宮八幡宮の旧社殿地ともほとんど重なり、この一帯が聖域とされていた古代からの信仰がのち大宮八幡宮の創建につながったと思われます。
 大宮遺跡は、発掘後埋め戻されましたが、出土品の一部は当宮清涼殿に展示してあります。












北参道











◆幸福撫でがえる石













◆一の鳥居











◆南参道鳥居











続く。