2020/01/16 駒沢散歩 05 世田谷神経内科病院/ねこじゃらし公園/浄真寺(九品仏)/おもいはせの路/自由が丘6号踏切・九品仏駅/大井町駅

ここでも南下する。
自由が丘に向かおうと思ったが、九品仏が近かったのでそちらに向かう。



◆世田谷神経内科病院




◆ねこじゃらし公園



なかなか良いネーミングだね~。
でも、ネコも居ないし、ねこじゃらしもなかった(w




◆浄真寺(九品仏)


本堂

 本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼(しゃかむに)如来(文化財)を安置し、当山第二世珂憶(かおく)上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板茸に大修築を完了した。
 本堂はまた「龍護殿(りゅうごでん)」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会(おめんかぶり)」は、この本堂(此岸) と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が、来迎・往生・還来(げんらい)と3回橋を行道するものである。





仏足石



 大聖釈尊の御入滅後、仏陀札拝の形式として、その御足(みあし)に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心募情の誠を示した。御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(せんぷくりんそう)(法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。



三仏堂(下品堂)


九品仏と三仏堂

 珂碩上人(1617~94年)は、 念仏行者としてー代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した 九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九躰とも文化財の指定をうけ、上品(じょうぼん)堂(中央)。中品(ちゅうぼん)堂(右)。下品(げぼん)堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三射ずっ安置してある。
 上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生か6下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意(こころ)の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九鉢寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双壁である。



三仏堂(中品堂)



来迎会(おめんかぶり)

 当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終のタべに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。
 このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。 なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。



三仏堂(上品堂)


三仏堂修復

 元禄11年~12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事を おこない、創建当時の偉容を再現した。
 九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである(都有形文化財)。



阿育王塔



 阿育(あしょか)王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈導の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。



鷺草

残念ながら花は咲いていなかった。





鷲草
(昭和四十三年八月一日、区の花に指定){ラン科}は陽の当たる湿地原野 に生える多年生草本で七ー八月頃、高さ二20~30cmの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷲の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。
 区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田圃に白生し奥沢には「驚の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「驚草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話も いく っか伝えられておりますのでその場一つをご紹介します。
 「室町時代世田谷城主吉良瀬康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて刺康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げロをしたので遠ざけられた。
 悲しんだ常盤は幼い頃から愛育とた白鷲の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をして いた頼康が白鷲を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遠書てあった。頼康は驚いて急 いて帰館したがとすでに遅かった。白鷲の射
落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花を見つけたのです・・・・・。



鐘楼




 仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名棲の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鐘は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖が二親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十二支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。



奥沢城跡



 境内周囲の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。
 参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂などいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失なわれてゆく都内の現状の中できわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。



仁王門




 重厚荘重なる仁王門(山門は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。
 一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。




紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩
 当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。



開山堂



 当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻きれたものてあって、古来より安産・厄除・問
選としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当名毎月七日開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。
 上人は元様7年(1694年)10月7日、御年七十七歳にて示寂(じじゃく)され当山の西北にそのみ御廟(みびょう)がある。






三十三観音


地蔵


閻魔堂


山門


創建の由来

 当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山(くほんざん)唯在念仏院(ゆいざいねんぶついん)浄真寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万㎡ (3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江户時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍德川家綱公の治世延宝6年(1678) に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂·仁王門とも茅茸を銅板葺に改修した。




参道入口




◆おもいはせの路

ぽかぽか公園以外は全部巡った・・・はず(w



◆自由が丘6号踏切・九品仏駅




すぐ隣がゴールの東急大井町線九品仏駅


散歩はコチラで終了。
今回は道が平坦でだいぶ楽だった。
九品仏のあるお寺が浄真寺だと思ってなくて、行ってビックリした。
今まで東急の路線が全くわからなかったので、これから詳しくなりたい。



大井町駅




大井町駅撮り鉄して帰る(w