2022/05/10 森下散歩 06 エーデルワイス/江月院/雄松院/正覺院(正覚院)/出世不動尊 長専院(浄土宗 不動寺/霊巌寺

少し南へ進んで清洲橋通りに出る。
その後は通りを東へ進む。




エーデルワイス

『株式会社エーデルワイス(英: EDELWEISS Co.,Ltd.)は、兵庫県神戸市中央区三宮に本社を置く日本の洋菓子・パンの製造・販売会社。 』
エーデルワイス (製菓業) - Wikipedia











◆江月院











◆雄松院


度会園女墓(わたらいそのじょ)

園女は斯波一有の妻で大坂にすみ夫妻医業を営んでいた。園女は俳句を芭蕉に学び元禄七年芭蕉が大坂にゆき園女の宅で発病し十月十二日死去した。園女は夫の死後江戸に移住し富岡八幡宮前にすみ眼科医をしていた園女は富岡へ36本の桜を植え歌仙桜と称しそこが桜の名所となった。園女は享保十一年(1727)四月二十日死去し雄松院に葬られた。
墓石につぎの辞世の歌が記されている
  「秋の月 春の曙見し空は 夢かうつつか南無阿弥陀佛」












◆正覺院(正覚院)












◆出世不動尊 長専院(浄土宗 不動寺



 松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787) 老中となりました。
 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、 天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。 とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、 不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
 この霊巌寺にある墓は、 昭和3年に国の史跡に指定されています。


木造阿弥陀如来立像

 長専院の本尊、像高は75.6cm。三尺阿弥陀と称される来迎形式の阿弥陀如来立像です。右手は肘を曲げて掌を前に向けて立て、左手は掌を前に向けて下ろし、両手とも親指と人差し指を捻じ、右足をわずかに前に踏み出して立っています。
 この像の造像技法は、二材以上を規則的に接合して造る「寄木造り」、もしくは「割矧ぎ(わりはぎ)造り」です。眼は水晶をはめ込んだ「王眼」とし、表面の仕上げは、肉親部は金の粉末をニカワに溶かして塗る「金泥(きんでい)」、着衣には漆の上に金箔を貼る「漆箔(しっぱく)」が施されています。全体にバランスがよくとれた優作です。
 形姿と造像技法から、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作例と考えられます。保存状態がよく、造立当初の姿をよく残していることは貴重です。













霊巌寺


銅造地蔵菩薩坐像



 江戸六地蔵の由来は、その一っ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に微って、宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩
をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓬台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、慶仏毅釈で取り壊され、五躯が残っています。
 六地蔵のうち、霊巌寺の地蔵は第五番目で、享保二年(1717)に造立されました。他の六地蔵に比べ、手の爪が長く、宝珠を持つ左手の指のうち、四本の指が密着した形になっています。像高は、273cmあり、かつては鏡金が施されており、所々に金箔が残っています。
 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。


松平定信



 松平定信(1758~1829)は八代将軍德川吉示の孫、田安宗武の子とーて生まれ、陸奥白河藩主となり、白河米翁を号していた。
 天明七年(1787)六月に老中となり寛政の改革を断行、寛政五年(1793)老中を辞している定信は老中になると直ちに札差(ふださし)統制(旗本・御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを計った。また朱子学者でもあり、「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身禄」などの著書もある。


勢至丸さま

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然房号で、諱は源空、幼名を勢至丸[2]、通称は黒谷上人、吉水上人とも。
諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。
選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
浄土真宗では、法然七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。 』
法然 - Wikipedia


石塔など


霊巌寺交通安全地蔵尊


山門











続く。